困ったことに面白い

若桜鉄道うぐいす駅

若桜鉄道うぐいす駅

門井慶喜というのは不思議な作家だ。その作品を冷静に分析すれば欠点だらけ穴だらけなのに、嫌いになれない。新作が出るとついふらふらと買って読んでしまう。
……と書くと、門井慶喜の新作を常にチェックしている熱心な読者だと思われるかもしれないが、そういうわけではない。たまたま書店で見かけたときに気分次第で買うこともある、という程度。たぶん全作品の半分くらいしか読んでいないはずだ。
それでも、ふだんハードカバーを買うことがほとんどなく、文庫かせいぜいノベルスでないと金を払ってまで読むことのない人間が、この『若桜鉄道うぐいす駅』はためらわずに買ったのだから、「気分次第で買う」のハードルは他の作家よりもかなり低いのだろうと思う。まあ、タイトルから鉄道ネタを期待したという理由もあったかもしれないが。
で、早速、書店からの帰りの電車で読み始めて、乗換駅のホームでも読み進めて、次に乗った電車が自宅の最寄駅に着く少し前に読み終えたのだけど、鉄道ネタはほとんどなかった。残念。
舞台は鳥取県にある若桜鉄道。実在の鉄道だ。グーグルで検索すると、最上位に若桜町商工会若桜鉄道へようこそというページがヒットするが、ちゃんと若桜鉄道株式会社ホームページもある。
若桜鉄道の始点である郡家駅から数えて三つ目にある「うぐいす駅」、その駅舎はフランク・ロイド・ライトが設計したとされるが、地元の鶯村の村長は駅舎を解体撤去して病院を誘致しようとしている。貴重な文化財と村民の生活のどちらを優先すべきか、というのがこの小説のストーリーの骨格となっている。これはもう真っ赤なフィクションで、若桜鉄道には「隼駅」はあっても「うぐいす駅」はないし、鶯村という村も実在しない。隼駅を守る会ホームページというのがあるので、その辺りから何らかのヒントを得ているのかもしれないが、ともあれ、フランク・ロイド・ライトとは何の縁もゆかりもない。あ、フランク・ロイド・ライトは実在人物です。知らない人もいるかもしれないので、とりあえずフランク・ロイド・ライト - Wikipediaにリンクしておく。そこでは触れられていないが、ライトはジョー・プライス氏が江戸絵画収集を始めるきっかけとなった人物でもある。
まあ、そんな話はどうでもいい。
駅舎を巡る小説なのだから鉄道ネタを扱っていると言えないこともないのだが、興味の焦点は建築物としての駅舎そのものに向けられていて、鉄道という総合的なシステムに占める駅舎の機能とか役割とか、そういった要素はほとんどんない。若桜鉄道は長年赤字で苦しんでいるため、駅舎の保存よりも鉄道路線の存続のほうが地元にとっては大きな関心事のはずだが、そういう方面に話が展開することはない。それが妙といえば妙だが、いかにも門井慶喜らしい割り切り方と言えなくもない。
そんなことより驚いたのは……あ、ここから先はこの小説の内容に深入りするので、「続きを読む」記法を用いることにしよう。
驚いたのは、途中でいきなり唐突なベッドシーンが出てきたかと思えば、それが寝取られへの伏線になっていて、さらに寝取られた主人公と寝取った男が村長選に出馬して戦うという凄い展開になったことだ。いったい誰がこんな突拍子もない流れを予想できるだろうか。さらにその選挙戦の結末もかなり意表を衝くもので、冒頭にも書いたとおり冷静に分析すれば穴だらけなのだが、小説が空中分解してしまうこともなく、なぜかうまく着地してしまう。細かな欠点をわざわざ挙げるのも馬鹿らしいほどだ。なんだか作者の語り口にうまく乗せられて言いくるめられてしまったような感じ。
とはいえ、瑣末かもしれないが一つだけ指摘しておきたいことがある。361ページ13行目の台詞の中に「出納長」という言葉が出てくるが、そんな役職は今の地方自治体には存在しない。地方自治法の一部を改正する法律(平成18年法律第53号)により廃止された。また、この改正以前にも出納長は都道府県にしか置かれていなかった。市町村で出納長に相当するのは収入役だった。この小説のこの箇所でわざわざ現実とは異なる制度を意図的に導入する意義があるとは思えないので、単なる作者のケアレスミスだと思うのだが、校閲者は何をやっていたのだろうか?