「叫び」が盗まれた現在、「叫び」を見るには「叫び」の複製画を見るしかない


一方現代では絵の写真が撮られ、それがさらに印刷されコピーされて世の中にあふれかえっています。絵(の写真)は手軽に見られるものになり、写真が発明される前に人々がどうやって絵を見ていたかなど普段は想像もつかなくなりました。写真を初めとする映像メディアの発達が、人々の絵の見かた、人々の絵に対する認識を根本的に変えてしまったのです。
これを読んで、マルセル・デュシャンの「L.H.O.O.Q.」を思い出した。「モナ・リザ」の複製画に鉛筆で髭を書き加えた作品だ。一昨年に滋賀県立近代美術館開館20周年記念展 コピーの時代でこの作品を見たとき、一瞬唖然としたことを覚えている。ついでにいえば、この展覧会全体が、「写真を初めとする映像メディアの発達が、人々の絵の見かた、人々の絵に対する認識を根本的に変えてしまった」ことをあからさまに観衆に突き付けるものだった。まだ図録の在庫があるようなので、興味のある人はぜひ購入することをお勧めしたい。
これに比べると挑発的ではないが、大塚国際美術館もなかなか興味深い。日本最大のスペースに西洋名画の数々が展示されているが、そのすべてが陶板によるレプリカという凄い施設だ。もちろん「モナ・リザ」もある。「最後の晩餐」なんか修復前と修復後の2枚が向かい合わせに展示されている。言葉ではうまく説明できないが非常に異様な空間だ。デュシャンが見たらどう感じただろうか?
さて、技術の進歩や普及により人々の見方や認識が根本的に変えられてしまうのは、何も美術作品に限ったことではない。思いつくままにいくつか例を挙げてみよう。

  • 映画がない時代、演劇を見るには劇場に行くしかなかった。
  • レコードがない時代、音楽を聴くには演奏会に行くしかなかった。
  • 印刷術がなかった時代、本を読むには写本に頼るしかなかった。
  • 電話がなかった時代、遠くの人と話をするには会いに行くしかなかった。
  • インスタントラーメンがなかった時代、ラーメンを食べるにはラーメン屋に行くしかなかった。

最後の例だけちょっと異質かもしれないが、これを思いついたのは昨日コンビニで「井出商店の中華そば」を見かけたからだ。井出商店は和歌山ラーメンブームの火付け役となった名店だが、ラーメンの袋に記載されている製造元は北海道のメーカーだった。別に何も不思議なことはないのだが、ちょうどぎをらむ氏の文章を読んだ後だったので、妙に印象に残った次第。
そのうち「仮想現実がなかった時代、物事を体験するには生身の身体を動かすしかなかった」と言われる時代が来るかもしれない。