『狼と香辛料(2)』の、すこし長い感想文

狼と香辛料 (2) (電撃文庫)

狼と香辛料 (2) (電撃文庫)

まとめ

  1. 狼と香辛料』は1巻もそれなりに面白かったが、2巻はさらに面白くなった。支倉凍砂はデビュー2作目にして「化けた」。
  2. 狼と香辛料』は会話に効かせた香辛料が面白い。その一例としての「明日」について。
  3. 狼と香辛料』において耳と尻尾に必然性があるかと訊かれれば「今のところ語られていない」としか言いようがない。だが、それらの必然性は既に語らずして示されているのではないか?
  4. 狼と香辛料』にはルーツがある。その作品とは……。

以下、内容に触れます。『狼と香辛料 (電撃文庫)』及び『狼と香辛料 (2) (電撃文庫)』をまだ読んでいない人はご注意ください。

狼と香辛料』は1巻もそれなりに面白かったが、2巻はさらに面白くなった。支倉凍砂はデビュー2作目にして「化けた」。

まず最初に確認しておかなければならないことがある。それは『狼と香辛料』シリーズが商人の活躍を描いた小説だということだ。そんな事は当たり前のことだが、ネット上の感想文をいくつか読んでみたところ、「これはホロ萌え小説であり、商売とか金儲けの駆け引きなどの要素はどうでもいい」という論調がわりと多くみられるので、念押ししておく次第。
もちろん、ホロの耳や尻尾に萌えるのが悪いわけではない。また、その要素に魅力を感じるがゆえに、経済小説としての側面についてはさほど関心を持たない人がいることも理解できる。ただし、「どうでもいい」と言って経済に関わる要素を不問に付すことができるのは、そこにことさら問題視するようなひどい傷がなく、きちんとツボを押さえて書かれているからだということは押さえておくべきだろう。いくらホロが魅力的に描かれていようとも、先を読むのが苦痛であるような平板なストーリーであったり、明らかに破綻したプロットであったりしたら、きっと「どうでもいい」とは言っていられなかっただろう。
ややパラドキシカルな言い方になるが、『狼と香辛料』シリーズにおいて商取引の要素が読者にとって「どうでもいい」と言えるものであるためには、その要素は「どうでもいい」ものであってはならない。比喩的にいえば、織物は裏打ちがしっかりしていないと、図柄をうまく表現することができない。
よって、このシリーズの面白さは、商売にまつわるプロットの作り込みの程度に大きく依存することになる。
さて、この観点から『狼と香辛料』シリーズを読むと、1巻と2巻には大きな違いがあることがわかる。どちらも「ロレンスが商取引に関して窮地に追い込まれ、ホロの助けを借りて危機を乗り越える」という構造は一致しているが、ロレンスに降りかかってくる危機の質が異なる。1巻においては、専ら身体的危機だが、2巻においては主として経済的危機だ。第三幕の終わりから第四幕にかけての、あの冷や汗がじっとりと滲んできそうないやぁ〜な感覚は1巻では得られなかったものだ。
なお、2巻でも後半でロレンスは身体的危機に見舞われ、ちょっとした活劇シーンが繰りひろげられる。そのあたりは1巻と似ている。ただ、1巻ではホロの立ち回りが作品全体の山場となっていたが、2巻ではサスペンスを盛り上げるというよりも、ホロとロレンスの関係を掘り下げるという意味合いを帯びている。むしろ特に派手な動きのない商人同士の会話シーンで緊張感が高まる。このような緩急のメリハリの付け方は非常にうまい。支倉凍砂が2巻で化けた、というのはこの事を指している。
もっとも、まだ完全に化けきったとは言えない。耳と尻尾がちらほらと見え隠れしている。なるほどロレンスは「希望」という名の船に乗り込みはした。けれどまだジャンケン勝負はしていない。それは3巻以降の課題となるだろう。

狼と香辛料』は会話に効かせた香辛料が面白い。その一例としての「明日」について。

支倉凍砂の文体には独特の癖がある。ときおりちょっと危なっかしい文章が見られ、決して流麗な美文というわけではない。「悪文」とまでいうと言い過ぎだが、円滑な文章を求めて精進してもらいたいものだ……というのは地の文の話。
会話文を書かせると支倉凍砂は非常にうまい。ホロとロレンスの、微妙な含みをもった言い回しが多用される掛け合いについてはくどくどと解説する必要はないだろう。説明なしでは理解が困難な年少の読者のために、台詞のすぐ後できちんと説明が与えられていることでもあるし。ここでは、別の会話を取り上げることにしよう。
201ページのロレンスとヤコブの会話から、台詞のみを抜き出してみる。

「【略】つまり、明後日にはお前の失敗が公になり、俺はお前の身柄を拘束しなければならない。ここから導かれる結論はなんだ?」

「二日の間に四十七リュミオーレを用意して、レメリオ商会にたたき返さなければ明日はないということです」

【略】

「明日がないというのは違うな」

【略】

「お前にはきちんと明日が来る。ただし、真っ黒で、辛く、重い明日だ」

【略】

「四十七リュミオールならば、長距離貿易用の船を十年も漕げば返せるだろう。【略】」

ここで「明後日」と「二日」は比喩ではなく、本当の日時を表している。それに対して、次の「明日」は文字通りの意味での明日、すなわち今日の次の日、を指すのではなく、「明日はない」で一つの慣用句となっている。その慣用句をいったん「明日がないというのは違うな」と否定しておき、続いて「真っ黒で、辛く、重い明日」と再度比喩で返す。そして最後に、この「明日」に実質を与える「十年」という言葉が発せられる。日時を表す言葉の文字通りの意味と比喩的な意味とが交錯する、非常に技巧的な会話だ。
だが、これだけでは終わらない。「明日」というキーワードはその後も何度か現れた後、357ページでもう一度重みをもって語られる。

「それに、俺たちが明日パンを買う金が、人の血で汚れているというのは居心地が悪い。物事にはたくさんの終わらせ方があるだろうが、明日もまた生きていくのであれば明日につながるものを選択しなければならない。そうだろう?」

150ページを経て響き合う「明日」と「明日」。いろいろと深読みできそうな気もするが、それは各自考えられたし。今は、これはただの一例に過ぎないとだけ言っておくことにしよう。会話の妙をいちいち全部取り上げていたらきりがない。

狼と香辛料』において耳と尻尾に必然性があるかと訊かれれば「今のところ語られていない」としか言いようがない。だが、それらの必然性は既に語らずして示されているのではないか?

ここでいう「必然性」とは、もちろん様相論理学で扱う必然性概念とは異なる。「もっともな理由」とか「十分な説得力」という程度の意味だと思って頂きたい。
さて、この話題は次の文章に触発されたものだ。

私は必然性と言うものに多少拘るところがあります。例えばキャラにケモノミミが付いていると「なぜケモノミミなのだろう」と疑問に思ってしまいます。ネコも杓子もケモノミミなのは許せません。いやネコは当然ネコミミでしょうけれど(汗)杓子がケモノミミであるにはそれ相応の理由が欲しいのです。無条件にケモノミミにすれば良いという訳ではないでしょう。ヴィクトリカスーパードルフィーにとってネコミミなど蛇足に過ぎません。ファンタジアバトルロイヤル編集部はそれが分からんのです(意味不明)。

以前、言及した際にはぼかしておいたが、今回はこの文章を『狼と香辛料』についての評言として捉えて、ぎをらむ氏への応答を検討する。
ホロの正体は狼だから、彼女が本来の姿を現している際には当然ケモノ耳と尻尾を生やしている。ここに不思議はない。不思議のないところに理由や説得を求める関心が発生することはないので、必然性を云々する余地はない。従って、問題は「ホロが人間の姿をとっているとき、身体の他の部分は本当の人間と全く変わらないのに、どうして耳と尻尾だけはもとの狼のままなのか」という点に絞られる。今のところ、作中でこの問題が明示的に取り上げられたことはなく、従って解答も与えられていない。もしかしたら作者の頭の中では理由づけができているのかもしれないが、他人の頭の中を覗き込むわけにはいかない。もし、何らかの方法で作者に問い合わせたとしても、きっとはぐらかされるのがオチだろう。ここはあくまでも作品に沿って考えることにしよう。
手がかりは2巻の223ページにある。

ロレンスは驚いて身をすくませたものの、ホロが持ち上げた大きめの椅子はなかなか飛んでこない。

すぐに気がついた。持ち上げるのが精一杯で、投げられないのだ。

【略】

ホロの細い腕では感情に任せて椅子を放り投げるのには無理があったのだ。

この描写から、ホロは人間の姿の時には、見かけ通りの身体的能力しか持ちあわせていないということがわかる。本来の狼の姿に戻れば、椅子を放り投げることなどたやすいだろう。だが、か弱い少女の姿では怪力は発揮できない。
だが、ホロは人間の姿であっても、通常の人間とは異なる能力を持っているのも事実だ。一つは、壁の向こうの話し声でも聞こえる驚異的な聴力、もう一つは人の言葉の裏に潜む嘘を見抜く洞察力だ。これら二つの異能はなぜ人間の姿のときにも保持されるのか?
その答えがケモノ耳であり、尻尾であると考えられる。
狼の耳は人間の耳よりも、より遠くの音を聞きつけることができる。それが彼女の人間離れした聴力の根源なのだろう。また、尻尾は賢狼のもつ人の言葉の真偽をかぎ分ける動物的な勘に関わっているのではないか。詳しいメカニズムはわからないが、ポリグラフのセンサーに似た機能をもっているのかもしれない。
ここから耳と尻尾の必然性を導出するのは容易だ。耳と尻尾は安全確保のために残したままにしてあるのだ。ホロに危害を及ぼそうとして敵がこっそりと接近しても、狼の耳は決してその音を聞き逃さない。また、甘言で籠絡しようとしても、よく毛づくろいされた尻尾の毛の一本一本が、内心を隠す言葉に含まれる微妙な揺れを感知するのだ。
もちろんこれは一つの仮説に過ぎない。
別の解釈の可能性も否定できないし、否定する気もない。より説得力のある解釈があるならそれに越したことはない。いずれにせよ、ホロの耳と尻尾に必然性がないという主張に対して合理的な疑いを差し挟むことができればよいのであって、別に唯一無二の解釈を選び取る必要はない。

狼と香辛料』にはルーツがある。その作品とは……。

狼と香辛料』のタイトルが『金と香辛料―中世における実業家の誕生』に由来すること、また商人の活動に関してこの本からある程度ヒントを受けていることは言うまでもない。しかし、『金と香辛料』を実際に読んでみればわかることだが、そこからの影響はさほど大きなものではない。貨幣改鋳については『金と香辛料』ではごく断片的に触れられているに過ぎず、そこから1巻のあのプランを考案した功績は、支倉凍砂自身に帰せられるべきだ。また、2巻第1幕のサブエピソードも『金と香辛料』に由来するものではない。
作者が『狼と香辛料』執筆の際に参照した中世ヨーロッパ史関連の書物はもちろん『金と香辛料』一冊ではないだろう。作中の記述のいくつかは別の歴史書に由来するものかもしれない。一つ一つの記述について調査を行い、どの記述にどのような典拠があり、どの記述が作者の独創に基づくのかを探究するのは有意義な活動だと思われる。だが、『金と香辛料』一冊を読むだけでも相当しんどい思いをしたので、この先の作業は誰か奇特な人にお任せしたい。
ここで「ルーツ」と呼ぶのは、元ネタとは少し違った意味である。
狼と香辛料』の随所に作中世界の風俗に関するちょっとした話題が盛り込まれている。その内容ではなく、そのような話題を盛り込むというスタイルに着目してみよう。何かそこに先行作品からの影響を感じないだろうか?
また、『狼と香辛料』では別の種類の描写も頻繁に行われている。それは、ホロの耳と尻尾に関わるものだ。尻尾の毛づくろいについて、表情豊かな耳の動きについて、作者の筆はのびのびとたっぷりとまるで自分の目の前で行われているかのように描き出す。下手をすれば間延びしてだらけてしまうところだが、不思議と冗長さは感じられず、濃密な時間がゆっくりと流れているかのような錯覚すら覚える。このような不可思議な読書体験は前にもなかっただろうか?
もったいぶるのはやめて、『狼と香辛料』のルーツを示そう。それは、森薫『エマ』及び『シャーリー』だ。

中世ヨーロッパ大陸をモデルにした異世界ヴィクトリア朝の英国とは遠く離れているし、ケモノ耳や尻尾とメイド服や眼鏡も全く別物だ。しかし、そのような時空間や事物の相違を超えた類似性が両者の間に明らかに見受けられる。それは、愛でるものに向けられた作者のまなざしである。
先の必然性についての見解と同じく、これもまた一つの仮説に過ぎない。具体的な証拠を求められても提示することはできない。でも、そんなものは必要だろうか? 支倉凍砂は間違いなく森薫作品を読んでいる。愛読者だ。そんなことは誰だって読み比べてみればわかる。

むすび

少し書きすぎたようだ。
当初、ごく一部の人にしか通じないネタを中心にして適当に書き飛ばすつもりだったが、書いているうちにだんだん気が変わって、結局ご覧の通りの感想文と相成った。内容が散漫なのでとても書評の名に値するものではないが、これから『狼と香辛料』論または支倉凍砂論を書く予定の人にとって少しでも手助け――または反面教師――になれば幸いだ。
ネタに逃げずにガチンコ勝負をするのがこんなに大変だとは思わなかった。こんな事をあまり続けると身体が持たないので、しばらく自粛します。