『『論理哲学論考』を読む』を読む

元版*1が出たのは4年前のことだった。ハードカバーはかさばるし読みにくいので滅多に買わないのだが、あの野矢茂樹が『論考』に真っ向から挑んだ本だから、と喜び勇んで買い求めた。
でも、途中で挫折した。
文章が読みにくかったというわけではない。内容は高度だが、この種の本にしては驚くほどわかりやすく書かれている。にもかかわらず、なぜ読み通せなかったか?
こたえは簡単だ。ハードカバーだったからだ。
その自信を持って言い切れるのは、文庫落ちしたこの本はちゃんと最後まで読み通すことができたからだ。文庫はいいよ、寝ころんで読めるから。
範型の違い以外にもうひとつ理由を挙げるとすれば、4年前と今との読書傾向の違いだろう。当時の日記を繙く*2と、まだライトノベルにはあまり関心がなく、ミステリを中心に読んでいた。今はなき大手ミステリ系サイト「ペインキラーRD」管理人ペインキラー氏相手に「本格ミステリ」の定義について論争を吹っ掛けていたのもこの頃だ。ああ、懐かしいなぁ。
今はもうほとんどミステリを読まなくなって、そのかわりにラノベばかり読んでいるわけだが、時折ラノベ独特の堅苦しさに息が詰まる思いがして、もっと気楽に読める本がほしくなる。そんなときに『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)』を数ページずつ読むと、いい気晴らしになった。そんなわけで、とびとびに読んだので約1ヶ月かかったが、所要時間を合計してもたぶん3時間程度だったと思う。
さて、この本の内容については、特に何も語ることはないのだが、一箇所、特に印象深かったところがある。それは終盤316ページだ。

自然数をいくら数え続けても驚き(こんな数があったのか!)はありえないように、論理空間をいくら精査しても驚くべきことは何ひとつない。あえて「退屈」という言葉を使おう。自然数をただひたすら数え続けることが退屈でしかないように、論理空間は退屈に満たされる。【略】
だが、いまや私は『論考』を他者の予感のもとに開きたいと考えている。『論考』の仕掛けた退屈の罠から逃れ、恐れも希望も、そして驚きも、取り戻したい。
この「退屈」というキーワードから、「憂鬱」を連想するのは、今の御時世ではほとんどデフォルトの発想といえよう。いや、いえないか。まあ、どちらでもいい。

*1:ISBN:488679078X。ちなみにはまぞうのデータでは元版のタイトルには「ウィトゲンシュタイン」が入っていなくて文庫版には入っているが、これは別に改題したわけではなく、データ入力の際の不統一によるものだと思う。

*2:「繙く」というのは比喩で、実際にはハードディスクの中を検索した。