可哀想な温

短篇礼讃―忘れかけた名品 (ちくま文庫)

短篇礼讃―忘れかけた名品 (ちくま文庫)

ごくたわいもない物語の筋を思いついた。こんな話だ。
……二人の子を連れて夫から逃げた女が労苦の果てに病死する。遺された姉弟は途方に暮れるが、姉は弟を養うために母の後をついで働きに出ることとなる。幼い彼女にとって苦しい生活が始まるが、母が遺した御守りを身に着けると人が変わって仕事に専念できる。そして仕事が終わって御守りを外すと仕事中のことをすっかり忘れるのだ。一方、弟は密かに父親と連絡をとり、仕送りを受けている。弟は金子を持って姉の後をつけ、御守りをつけて街に立つ姉の客となる。彼女が初めて仕事に出た日から、彼女の客はただ一人だけ。仕事が終わると姉は弟の好物を買いに市に寄り、一足先に家に着いた弟は狸寝入りをして姉を待つ。姉は弟を揺り起こし「今日もお花がいっぱい売れたから、奮発してお前の好物を買ってきたよ」と告げる……。
着脱すると人格が変わって記憶が消えるアイテムを出すのはやや安直だが、純粋に心理的なメカニズムで同じ現象が起きることにするには、かなりの文章力が必要だ。そんなものは持っていないので、手持ちの能力で我慢するしかない。
さて、この物語にタイトルをつけるとするなら何がいいだろう? すぐに思いついたのが「可哀想な姉」だった。これしかない、と思った。だが、このタイトルで小説を書くなら、まずは渡辺温の同題作品を読んでおかなければならないだろう。そう、よくアンソロジーに取り上げられるのでタイトルだけは知っていたが、現物はまだ読んだことがなかったのだ。
で、たまたま書店で手に取った『短篇礼讃』に「可哀想な姉」が収録されているのを見て、早速読んでみることにした。
……あ。
……なんだか、嫌な予感が。
……あああ。
既に「可哀想な姉」を読んでいる人ならおわかりの事情により、上記の物語は永久に封印されることとなった。
「可哀想な姉」を読まずに下手くそな小説を書いて悦に入る滑稽な自分の姿が一瞬脳裏をよぎった。危ないところだった。
というわけで、「可哀想な姉」は傑作だ。今さら言うことでもないが傑作だ。未読の人は書店に走るがいい。それが面倒なら青空文庫で読め。いいから読め。

全然傾向は違うが、これも読め。

まだこの2作しか読んだことがないので、他に薦めることはできないのだが、次はタイトルが面白いこれを読むことにしようと思っている。

さて、渡辺温といえば夭逝した天才作家として知られている。さよなら夭逝。『短篇礼讃』の解説から少し引用してみよう。


昭和五(一九三〇)年二月十日午前一時四十五分ごろ、兵庫県西宮市郊外の阪急線夙川踏切で、タクシーが貨物列車と衝突した。タクシーの後部座席に乗っていた渡辺温は頭を強く打ち、近くの病院に運ばれたが、三時間後に死亡。二十七歳だった。
渡辺温は博文館の雑誌『新青年』の編集者で、前日の九日午後、原稿依頼のため神戸市郊外の岡本に住んでいた谷崎潤一郎を訪ねた。映画会社に勤めながら小説を書いていた夙川在住の長谷川修二が同行した。【略】渡辺と長谷川は谷崎邸をあとにすると、深夜まで神戸で遊び、夙川に帰る途中、事故に遭ったのである。谷崎は渡辺との約束を守り、昭和六(一九三一)年十月から『新青年』に、戦国時代に題材をとった伝奇ロマン「武州公秘話」を連載した。
おや? 事故現場は阪急の踏切だったのか……。てっきり阪神の踏切だと思っていた。
もう一つ不思議なのは、タクシーと衝突したのが貨物列車だったということ。阪急にせよ阪神にせよ旅客専用鉄道なので、貨物列車など走っていない。もしかしたら、営業運転終了後の深夜に保線用に走らせる作業用車輌だったのかもしれないが、ちょっと気になるところだ。
ところで、今、青空文庫作家別作品リスト:渡辺 温を見ると、『通俗伊蘇普物語』というタイトルが作業中 作家別作品一覧:渡辺 温に挙がっていた。そりゃ違うでしょう。『通俗伊蘇普物語』の著者は渡辺温ではなくて渡部温だ。
最後に、ヴァーチャルネット探偵作家おん28歳にリンクしておく。