それは「記述」じゃありません!


宇宙人が、人間の作ったオルゴールを拾ったとする。彼らは視覚や聴覚を持たず、したがってからくりや音楽という文化を持たない。彼らはその優れた科学力で、物理的に地球人の作ったものと同じコピー品を作ってみた。そのコピー品は、ぜんまいを巻けばちゃんと元のものと同じく動くし、人形は踊り、音楽も奏でられるだろう。ただ、その意味が宇宙人にはよくわからないだけだ。ぜんまいを巻くということすら思いつかないかもしれない。
彼らはオルゴールを物理的に記述することには成功している。音楽やギミックも(ピンや歯車の配置という形で)正しく記述しつくしている。意味を理解できずとも、物理的に同じものを作れば、それは同じ機能を果たすからだ。
出張先でこの記事を読んで「いや、それは対象の機能を再現しただけで、記述したわけではないんじゃ……」と思い、帰ったら整理して反論記事を書こうと思っていたのだが、その前に

上で挙げたオルゴール音楽に関してもそうだけど、俺が「物理的記述が出来る」と考えるときの条件は、再現性だ。デザイン意図を分析できているかどうかは問題にしていない。
と書かれていた。先を越された。
でも、いちおう考えをまとめておこう。
「記述」というのは読んで字の如く「記す、述べる」ということで、ある種の言語的活動またはその産物のことだ。狭い意味では言語には含まれないかもしれないが、図面や楽譜なども記述のうちに含めていいだろう。オルゴールを分解してその図面を描いたり、オルゴールから発する音を楽譜に起こしたりすれば、それらはオルゴールの記述だといえるだろう。それらは不完全な記述に留まるかもしれないが、ともあれ対象を何らかの仕方で指示している。
それに対して、オルゴールのコピーはどうか。オルゴールの図面とオリジナルのオルゴールの関係、または、オルゴールの楽譜とオリジナルのオルゴールの関係と類比的に捉えること不可能ではない。しかし、コピーを作成したり動作させたりすることがオリジナルを指示することになるという社会的慣習があるわけではないので、かなり特殊な状況を想定しない限り、オルゴールのコピーがオリジナルのオルゴールを指示しているとみなすことは難しい*1のではないか。
……と、書いてはみたものの、いつだったか記号論の入門書を読んでいたら、「暗雲は来るべき雨を指示する」とか平気で書いてあって驚いたことがある。因果関係や類似関係を意味論的関係と一緒くたにしてしまうのにはかなり抵抗があるのだが、そのような考え方を受け入れれば、再現も記述のうちと言ってもいいのかもしれない。
なお、オルゴールの例では、物理的記述可能性が再現可能性の条件と考えることは自然だ。オリジナルと同じ機能をもつコピーは、物理的記述が十分になされている証拠とみなせるだろう。だが、それはまた別の話。

*1:逆に、かなり特殊な状況を想定しない限り、図面や楽譜を紙の上についた単なるインクの染みとみなすことは難しい。