独善の罪

独善を罪だとみなす考え方はヘブライ的なので、日本人の発想法には馴染まないかもしれない。しかし、それを罪と呼ぶかどうかは別として、独善が好ましいことではないという了解はあるものと思う。もしかしたらそんな了解はないかもしれないが、それでは話が進まないので、あることにしておこう。
さて、独善というものは、他人の目から見れば明らかであっても、自分ではなかなか気づかないことが多い。また、後になって気づくことがあっても、その時には自分が独善的に振る舞っているとは夢にも思わないということも多い。他人から指摘を受けて、あるいは後で反省して気づいて、それで事がすむのならいいが、場合によっては取り返しのつかないこともある。
一生、独善の罪を犯すことなく、道徳的に正しく生きる完全な方法などというものはない。せいぜい、常に自分自身の言動をチェックして独善の罠に陥っていないかどうか確認するように心がける程度だ。このような心がけは怠惰で飽きっぽい人間にはなしえないが、仮に強い意志の力をもって自己チェックを完璧にこなしたとしよう。それで問題はないか? いや、大問題だ。
いつもいつも自分が独善的でないかどうかを考えながら生きていくのは、一種の病的な状態だ。過度に道徳的であることは道徳に反する。人間、たまには羽目を外すことも必要だ。
しかし、ある程度の独善は自分自身に対して許容すべきことなのだとしても、いったいどこまで許していいのかがよくわからない。これもまた悩ましい問題だ。
もちろん、この悩みは、この悩みを悩みとして捉える人だけの悩みであり、そのような悩みを持たない人にとっては悩みでもなんでもないのだが、