漢字の使い分けはどこまでゆるされるべきか

以前は常用漢字原理主義者だった。
固有名詞以外は表外漢字を一切用いない。「嘘」は常用漢字ではないから、「うそ」と仮名で書く。「嘘言症」は「虚言症」と書き換える。
常用漢字であっても、常用漢字音訓表にない使い方はしない。「描く」は必ず「えがく」とよむ。「かく」とよむなら「書く」に限る。「想う」や「経つ」などもってのほかだ。
その後、徐々に考えが変わって、今では平気で表外漢字や表外音訓を用いるようになった。「絶讃」や「短篇」など当たり前。最近は「障碍」も使うようになった。「てもと」を「手許」と書くのに何の抵抗もない。
だが、いったん常用漢字の制約を取っ払ってしまうと、いろいろと迷うことも多い。特に漢字訓読みの使い分けが厄介だ。
もともと漢字には音しかなくて、訓は日本人が勝手に後から加えたものだ。やまとことばの語彙と漢字本来の意味とは一対一で対応してはいない。どちらかといえばやまとことばは大雑把なので、同じことばでも場面によって使い分けることになる。
たとえば、「ゆるす」という言葉がある。常用漢字音訓表で認められているのは「許す」だけだが、そのほかに「赦す」もよく使われている。辞書によれば「聴す」という表記もあるようだ。「聴す」は主に漢文を読み下すときの訓らしいので除外するにしても、「許す」と「赦す」の使い分けは難しい。
今のところいちおう次のような基準で運用しているのだが……。

  • 禁止されている行為をこれから実行することをゆるす場合には「許す」
  • 禁止されている行為をすでに実行した罪をゆるす場合には「赦す」

前者は「許可」、後者は「赦免」だから、というのが使い分けの理由なのだが、さて本当にこの基準が妥当なのかどうかは自分でもよくわからない。
識者の意見を聞きたい。
あ、この場合の「きく」は「聴取」とか「傾聴」という文脈だから「聴く」なのかっ?!