『インシテミル』の〈ルールブック〉について

インシテミル

インシテミル

昨日書いた感想文の中ではっきりと書かなかった点について補足説明しておこうと思う。前回は『インシテミル』未読の人もOKということにしておいたが、これから書くことはたぶん未読の人にとって何も有益なことはないばかりか、場合によっては著しく興をそぐことになるおそれがあるため、この先は決して読まないでもらいたい。
人払いがすんだので、早速〈ルールブック〉を見よう。まず95ページ、「〈夜〉に関する規定」から。

(1)各参加者は、午後十時から午前六時まで、各々割り当てられた個室にいなければならない。この時間帯を〈夜〉と呼ぶ

早速、ここで重要な文言が脱落している。「午前六時」の前に「翌朝」が必要だ。87ページの放送でははっきり「翌朝六時まで」と言っているし、「時間帯」と断っているので、常識的に考えれば翌朝六時のことを言っているのは明らかだが、明らかだからといってそこに文言の脱落がなかったことにはならない*1

(1−1)ただし、非常事態(後述)がかけられた場合、ならびに死者・負傷者が出たことが明らかになった場合は、その限りではない

(1)の義務が解除される場合の終期が示されていない。いったん死傷者が出れば、それからずっと「その限りではない」のか。当該〈夜〉に限られるのか。それとも、死傷者の処置が終わった段階で再度個室に戻らされることになるのか。

(1−2)〈夜〉の間、〈ガード〉は定められたルートに従い、個室を除いた各部屋の巡回を行う。ただし、ある部屋に二人以上の人物がいた場合には、この限りではない

「ある部屋」とはどの部屋のことだろうか? 「少なくとも一つの個室」を意味するのだと解釈するのが自然だが、それならなぜそのように書いていないのだろうか? 「ある部屋」に二人以上の人物がいた場合には、〈ガード〉はその部屋に踏み込むのか、その部屋に限らず任意の個室に踏み込むのか、それとも巡回をやめてしまうのか、「この限りではない」の否定作用の及ぶ範囲が不明だ。
次に1つ飛ばして

(1−4)〈ガード〉からの警告が三度累積した状態で警告を受けた者は、〈ガード〉によって殺害される

警告回数は全参加者を通じてカウントされるのか、それとも各参加者ごとに別々にカウントされるのか?
「〈夜〉に関する規定」を見ただけでも、これだけあやふやな点が挙げられる。生命保険の約款なら、もっときっちりと紛れのないように書いているはずだ。そのような書きぶりになっていないということは、この〈ルールブック〉の作成者が、それほどの厳密性を必要としないと判断したからにほかならない。すなわち、ゲームの参加者にルールを明確に提示してフェアな条件で推理を競わせることを主眼としているのではなく、参加者たちが右往左往するさまを見て楽しむことに主眼が置かれているということになる。
続いて96ページの「ボーナスに関する規定」を見てみよう。

(1)人を一人殺害した者は、「犯人ボーナス」として、報酬総額を二倍とする。このボーナスは累積する
(2)殺害された者は、「被害者ボーナス」として、報酬総額を一・二倍とする。このボーナスは累積しない
(3)殺害一件について、正しい犯人を指摘した者は、「探偵ボーナス」として報酬総額を三倍とする。このボーナスは累積する
(4)犯人を指摘せんと試みる者は、調査に役立った者一名を指名することができる。指名された者は「助手ボーナス」として、報酬総額を一・五倍する。このボーナスは累積しない
(5)犯人を指摘する試みに際し、証言を取り上げられた者は、その発言一件につき「証言者ボーナス」十万円を得る

「累積する」という言葉の使い方がずれている。おそらくここで言わんとしていることは、たとえば人を二人殺した者は報酬総額が二倍の二倍、すなわち四倍になるといったことなのだろうが、そのような事態はふつう「累積」とは呼ばない。一定の期間に得られたものが次の期、さらに次の期へと引き継がれて、積み重なっていくことをいうのだから。
それはともかく、この「ボーナスに関する規定」にはいくつかの曖昧な点がある。

  • ここでの「殺害」は自殺を含むのか、含まないのか? 含むのだとすれば、「犯人ボーナス」と「被害者ボーナス」の両方が支給されることになるのか?
  • 一件の殺人に複数の人物が関与していた場合、「犯人ボーナス」はどのように取り扱われるのか?
  • 一件の殺人に複数の人物が犯人を指摘せんと名乗りを挙げて、どちらも同じ人物を犯人だと指摘した場合の「探偵ポイント」はどうなるのか? いったん解決された事件について、同じ人物を犯人として指摘する推理を提出した場合はどうか?
  • 「助手ボーナス」や「証言者ボーナス」は、犯人の指摘が誤っていた場合でも支給されるのか?
  • 「証言者ボーナス」の単位となる発言件数はどのようにしてカウントするのか? 「背が高くて髪の長い人影を見かけました」なら一件で、「背が高い人影を見ました。そして、その人影の髪は長かったのです」なら二件になるのか?
  • 「被害者ポイント」は〈ガード〉に殺害された場合でも支給されるのか?*2

このほか、通常のルールブックではちょっと考えにくいほど曖昧だったり多義的だったりする規定がいくつも見られる。それも、作中で明示されていない別の規定により補完されているとは考えにくい書きぶり*3になっている。
以上が、前回の感想文で「技術的瑕疵」と表現した事柄の内容だ。
人によっては、このような瑕疵はあまり気にならないだろう。「だって、〈ルールブック〉の実効性を担保するものが何もないでしょ? どんなに厳密に書いてあってもどうせ信頼できないんだから、そんな細かな言葉尻に拘ってもしょうがないよ」と主張するかもしれない。そのような見解には賛成しない*4が、いずれにせよ『インシテミル』はミステリのギミックを鏤めたトリッキーなサスペンス小説であって、それをゲーム型ミステリとみなすべきではない、という結論に違いはない。
ガチガチのパズラーを期待した人にとってはちょっと寂しい話かもしれないが、別にそれで『インシテミル』の価値が減じるわけではない。『インシテミル』はパズラーとは別の尺度で評価されるべきだろう。

*1:「都築道夫」という表記を見れば誰にとってもそれが都筑道夫のことを指していることは明らかだが、明らかだからといってそこに誤字がなかったことにはならないのと同じ。

*2:87ページでは「人に殺された場合」とされているが、それは報酬額が増える場合を限定列挙したものか、それとも例示しただけなのかが不明となっている。

*3:作中で明示されていない別の規定には読者はアクセスできないのだから、補完されていようがいまいが同じではないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、「読者にはわからないが、作中人物たちは十分なルールを与えられた上で行動しているのだろう」と推測しながら読むのとそうでないのとでは、読み方が若干違ってくる可能性がある。

*4:どのような場合でも、ルールの基礎づけには限界があるのだから、『インシテミル』の〈ルールブック〉の場合にことさら無根拠性を強調すべきではないと考えるため。いちおう形式が整った規定があればそこには何らかの強制力が働いているのだと推定するのでないとミステリなど読んでいられない。