『ひぐらしのなく頃に』と『涼宮ハルヒの消失』と『夏期限定トロピカルパフェ事件』の共通点は何か?

一見バラバラな三作品『ひぐらしのなく頃に』『涼宮ハルヒの消失』『夏期限定トロピカルパフェ事件』には共通点がある。

それは国内ミステリがたどった大きな変化の先頭であり、キャラクター文学に人間を描く新しい手法をもたらした。

探偵小説研究会編著「CRITICA」第4号に掲載される、探偵小説評論賞奨励作「探偵達の新戦略」を第二章まで公開します。

ひぐらしのなく頃に』は開始後数時間で投げ出したくらいなので、作品そのものには興味はない*1が、残り2作品はどちらも刊行直後にかなり大きな期待とともに読み、そしてその期待をさらに上回る面白さに満足したという共通点がある。だが、もちろん両作品の面白さは全く異質なもので、そこに何らかの共通点を見出したことはない*2。「国内ミステリがたどった大きな変化の先頭」とか「キャラクター文学に人間を描く新しい手法」と言われても具体的にどういうことなのか、さっぱりわからない。
そこで、早速探偵達の新戦略〈試供版〉を読んでみた。
……なるほど、そういうことだったのかっ!
要するに、
コミケ初日に西地区ま18aに行ってCRITICAを買え」
ということですね。
むぅ、初日は有明には行かず横浜美術館フランス絵画の19世紀展をみようと思っていたのに……。
それはともかく、探偵達の新戦略〈試供版〉について3点ほどケチをつけておく。
1点目。

AとBが関係していることを客観的に(弁護士を次の証言者に急がせるほど客観的に)証明するには、ふたつの方法がある。統計と、科学実験だ。

殺人や過剰な暴力を描く小説が、成長期の心に悪影響をもたらすことを証明したいとする。十代の少年少女が推理小説を読んでいる国とそうでない国とで、犯罪発生率の違いを調べてみる。ミステリが普及している国のほうが、若者による犯罪発生率が高かったなら、無垢な子供達に悪書を与えてはいけないと結論できるだろうか。

残念ながら、できない。統計手法に問題がなければ、ミステリと犯罪とは確かに相関がある。しかし相関があるからといって、それが因果関係だとは限らない。

証明されたのは「ミステリを読む、ならば、犯罪に走りやすくなる」ではない。例えば、若者が生活苦から犯罪に走るほど経済状況が悪化している国では、高価な娯楽には手がとどかないため代わりに安価な推理小説が読まれるのかもしれない。統計は相関を証明するが、それは必ずしも因果関係ではない。

因果関係を証明するには、統計ではなく科学実験が必要だ。AからBへの論理を考察し、仮説を立て、理想的な環境でそれを実証する。追試を繰り返し、蓋然性を高め、そうして初めて因果関係が証明される。

ここでは統計と科学実験を「ふたつの方法」として並べて扱っているが、よく考えるとおかしい。「統計」というのは与えられたデータを処理する方法であり、「科学実験」はデータを入手する方法なのだから、そもそも同次元の事柄ではない。一方の「方法」が相関関係の証明と結びつけられ、他方の「方法」が因果関係の証明と結びつけられるという、図式には相当歪みがある。
2点目。

さて、この推理の過程をもう少し詳しく追ってみよう。足跡をみつけたとき、あなたはそれを解釈1「ご隠居が残した」と判断した。だが同時に、解釈2「ご隠居以外の人物がつけた」、解釈3「足跡はご隠居のものだが、他の人物も雪が降り止む前に離れへ向かった」といった他の解釈もありえるはずだ。

なぜ、私たちは解釈1を選択したのか。それはご隠居が離れで寝泊まりしているという前提からすれば、解釈1こそ最も蓋然性が高いからだ。他の解釈も(上昇気流やピアノ線のように)決してあり得ないわけではない。しかし蓋然性が低いため、この時点では無視される。

離れへ向かい、死体を見つけたあなたは解釈1を見直す必要に迫られる。物理的に考えて、犯人も離れに来ていなければ殺人を為すことはできない。こうして解釈4「ご隠居を殺害した誰かが、この離れに隠れている」を得る。可能性としては解釈5「ご隠居を殺害した誰かが、特殊な方法で足跡を残さずに本邸へ戻った」といった他の解釈も可能だが、先程と同じく蓋然性に基づき棄却される。

あなたは離れを捜索し、誰も隠れていないことを知る。こうして解釈4が棄却され、解釈5が選択される。

可能な諸解釈のうちから蓋然性の高いものを選び取り、そうでないものは無視ないし棄却される、という話をしたいのだと思うが、例がよくない。解釈1と解釈2は排他的だが、解釈3は解釈2の下位解釈に過ぎない。解釈4及び5に至っては、当初の「足跡わつけたのは誰か?」から「ご隠居を殺害した誰かはどこにいるのか?」に主題が変わってしまっている。
これはどういうことか?
解釈を施されるべき事象についてのデータの蓄積により、各解釈の蓋然性についての見積もりに変更が生じるだけでなく、何が解釈を施されるべき事象であるのかということについての関心そのものに変更を生じさせるということだ。これは、ミステリにおける探偵役の推理を考える上で見逃せないポイントだ*3が、今引用した例及びその後に掲げられている図「ロジックとルール」ではその点が欠如している。
3点目。

探偵役はさまざまな事物を目にし、証言を耳にして、それを解釈する。事物からは複数の解釈が可能だが、蓋然性を考慮し、ひとつだけを妥当な解釈とみなして他を棄却する。このような、事物/証言を解釈するときの根拠となる因果関係を「ルール」と呼ぼう。ルールとは、具体的には現場状況や常識的な知識を指す。それなりに蓋然性が確認されてはいるが、絶対に正しいとは限らない法則だ。

探偵役はさまざまな手がかりを観察し、解釈を積み重ねる。しかし、これらの推察は必ずしも整合性を満たさず、統合的判断のもとに解釈の見直しが図られる。このように複数の解釈を整理し検証するための判断規則を「ロジック」と呼ぶことにしよう。具体的には論理学の法則や、日常レベルでは疑いようのない物理法則などがそれにあたる。

「ルール」とか「ロジック」という基本的な語彙に恣意的な用法を割り当てるのは読者に無用の負担を強いることになる。言葉遣いの問題なので瑣末な指摘だと思われる向きもあろうが、こうやって「ルール」や「ロジック」に特殊な意味を持たせしまうと一般的な意味での「ルール」や「ロジック」をどう言い表せばいいのかという切実な問題も生じる。
たぶん、このあとの文章で「ルール」や「ロジック」という言葉が頻繁に用いられているのだろう。第六章など「ロジックベースからルールベースへ」という見出しになっていることだし。首尾よく「CRITICA」第4号を入手できても、果たして最後まで読み通せるかどうか不安になってきた。

*1:この作品がなぜ多くの人々の支持を集めたのかという点には興味はある。

*2:作品単位ではなく作家単位でみればいくつかの共通点があるが、いちいち挙げる必要はないだろう。

*3:よくは知らないが、たぶん『ひぐらしのなく頃に』を読み解く上でもこれが大きなポイントになるのではないか? この辺りのことは魔王14歳の幸福な電波の中の人に聞けば熱弁を振るってくれることと思う。