『湖岸の盲点』の感想

安楽椅子犯人のサイトで『小此木鶯太郎の事件簿-湖岸の盲点』の解決編が公開されたので読んでみた。
4つのミスはすべて見破ることができたので、正解者としてカウントされてはいるのだが、2つめのミスに付随するミスには気づかなかった。これはちょっと残念だ。
さて、解答を書いて送ったとき疑問点として挙げたのは解決編で3つめのミスとして提示されているもののことだ。これについては解答編のあとの答え合わせの箇所で次のように解説されている。

このミスは扱いが難しいです。
これと似たようなロジックを「犯人当て」でやると、まず確実に「フェア」か「アンフェア」かで論争がおきます。
「性格」という不確定なものをロジックに組み込んでいるからです。

ですが、今回の場合は「犯人当て」ではなく「ミス探し」です。
しかも、犯人の性格を確実なものとして描写できる「犯人視点のミステリ」です。

このミスだけが答えられず、「4つのミス」に満たなかった方には本当に申し訳ないのですが、「犯人の矛盾」を追求する「ミス探し」においてはこれが解答となるとお考えください。

このミスと同じものを組み込んで「犯人当て」を書いても「フェア/アンフェア」という観点からの論争はおこらないのではないかと思う。というのは、『不連続殺人事件』の有名な「心理の足跡」をはじめ、この種の手がかりはよく用いられるものだからだ。犯人の性格が十分に示されていて、ミスがあからさまなものであれば、100パーセントの確実性まではふつう要求されないものだし、もし100パーセントの確実性がないという理由で誹るにしても「手がかりとして弱く、決め手にならない」という非難の仕方になるだろう。いずれにしても、フェアかアンフェアかというレベルの話ではない。
もし、その手がかりひとつで犯人を指摘することを要求するなら、「真相を言い当てるのに十分なデータを提示していないからアンフェアだ」というふうに、無理矢理「フェア/アンフェア」の議論を持ち込むことは可能かもしれない。しかし、その場合でも虚偽の記述や意図的なデータ隠しなどのような「叙述上のアンフェア」とは別物だと思われる。
むしろ、犯人の心理の動きを忠実に描写する倒叙形式のミステリにおいて、犯人が自らの行動の不自然さに気づいているのに、その場面での心理描写から省いて記述するほうが、「フェア/アンフェア」の議論を誘発することになる。その点をどうクリアしているのかがわからなかったので、ぐだぐだと考えてしまったのだが……解決編を読んだとき、非常に単純明快なアンフェア回避方法が採られていたので、「なるほど、その手があったか!」と感心した。
考えてみれば、芦国の立場に一定の理解を示している犬塚の死によって、より激しい環境破壊が行われる危険性があるということに気づいていないくらいだから、彼が目先の事象にのみ拘って、先を見通す力に乏しい人間であることは明らかで、それなら2つめのミスに気づかなくても全く不思議はないわけだ。
しかし、感心してばかりはいられない。いくつかケチをつけておこう。
ひとつめ。解決編が長すぎる。名探偵と犯人の奇妙な心の交流のようなものを描いて余情を醸し出そうとしたのかしれないが、謎と論理の物語にはそのようなものは不要で、余剰に過ぎない。
ここでちょっと引用。先ほど引き合いに出した『不連続殺人事件』の作者、坂口安吾の言葉だ。

刺青殺人事件は、すぐ犯人が分ってしまう。それを、いかにも難解な事件らしく、こねまわしているから、後半が読みづらい。三分の二が解決篇みたいなもので、その冗漫が、つらい。将棋をやって、犯人をテストするなど、バカバカしくて、堪えがたいものがある。解決篇の長さは、十分の一、或いは、それ以下の短かさで、まに合い、そして、短くすることによって、より良くなるのである。

いったいに、小説というものは、短くすると、たいがい良くなる。文章が本来そういうもので、作者は何か言い足りないような気持でゴタ/\書きたいものだけれども、文章は本来いくら書いても言い足りないもので、むしろズバリと一言で言ってのけ、余分のところをケズリ取ってしまう方が、却って言い足り、スッキリするものだ。

坂口安吾推理小説論は極論が多く、ミステリ全般には適用できないが、『湖岸の盲点』のような読者への挑戦を主眼としたゲーム型探偵小説に対しては有効ではないかと思われる*1。問題編は手がかりやミスディレクションをちりばめるためにある程度長くなるのは仕方がないが、解決編では推理の道筋を辿れば用が足りるのだから、小説としての体裁を整えるための最小限の装飾以外は書かないに越したことはない。
ふたつめ。これは以前指摘したことだが、探偵役の小此木鶯太郎の名前に現在の日本では人名に用いることができない「鶯」が含まれている。刑事が偽名で活動することはあっても、関係者が理由もなく偽名で呼びかけることはないだうから、これは本名ということになるが、だとすると
この作中世界では戸籍にかかる法制度が現実の日本のそれとは違っているということになる。
このこと自体は別に『湖岸の盲点』にとってのミスとは言えないが、今後、小此木鶯太郎を探偵役としてシリーズを続けるとすれば、そこには制約が加わることになる。たとえば、

「嘘太郎さん、あなたは大きなミスをしでかしました。あなたの保険証には確かに『嘘月嘘太郎』と書かれていましたが、これはあるはずがないことなのです。なぜなら、今の日本では人の名前に『嘘』という漢字は使えないのですから、あなたの保険証が偽造されたものだということはすぐにわかりました」

というような推理を行うことはできないわけだ。
問題は「制約」の範囲がどこまでかということだ。言葉や法律に関する手がかりがすべて無効だというのは極端だろうが、少なくとも人名や漢字に関する手がかりの取り扱いが紛糾のもととなることは覚悟しておかなくてはならないのではないかと思われる。
みっつめ。『湖岸の盲点』はもともとふつうの小説として書かれたものをサウンドノベル化したものだそうなので当然といえば当然だが、音声やグラフィックがあまり有効に活用されているとはいえない。犯人の3つのミスは画像でも表されているが、別にそれがあってもなくても推理には影響を及ぼさない。いわば、「ヴァイオリンソナタ」と名乗っておきながら、その実体は「ヴァイオリン助奏付きピアノソナタ」になっているようなもの*2だ。
サウンドノベルという媒体でミステリを作るときには常に音声か画像にネタを仕込まなくてはならない、などというつりはないが、ふつうの小説に比べて読みにくく時間もかかるサウンドノベルで読者に挑むのなら、サウンドノベルの特性を活用して「なるほど、これはテキストだけじゃ無理だ!」と思わせるものを期待したい。

*1:ひとつの文の中で「推理小説」「ミステリ」「探偵小説」と書いたが、なんとなくそうしてみたくなっただけで、特に使い分けを考えているわけではない。

*2:さよならピアノソナタ 3』246ページ参照。