好みと人気と優劣

あなたが良いと思うものが良いものなのだ、という考えは、こうした感受性や直観に支えられていれば妥当でしょうが、そうでなければ単なる個人の好みでしかない。好みと人気と優劣は、すべて別々の要素です。好みはその人自身が判断するだけだし、人気は客観的に言えるでしょうが、優劣はそうはいかない。にもかかわらず、優劣を理解する人にとっては、それは実に歴然としているのです。趣味のない人には優劣はわからないが、わかる人には歴然とわかる。あれこれ理由を述べることはできるかもしれないけど、そんな説明で趣味のない人に優劣を納得させることはできない。批評というのは、趣味のある人のあいだでしか機能しない。

「売れる作品が良い作品だ」などと訳知り顔で言う人がいますが、商売としては正しいかもしれませんが、本当にそれが優劣だと思っているならば、その人は単に趣味がないのです。自分では何が優れているか判断できないので、人気という別の指標に置きかえているだけです。「優劣の基準なんて誰かが作ったものでしかない」という人も同様。自分で判断できる人は、誰かの基準に照らして判断などしていない。趣味判断の傾向を説明する分析はできたとしても、それで優劣が相対化されるわけじゃない。

理解できない人はきっと、僕が自分の好みを絶対化していると思うのでしょう。違うのです。好みと優劣は別だと言っているのです。簡単でしょ?人は、駄目な人に恋してしまうことがあるように、駄目な作品を好んでしまうことがある。駄目なものばかりを好きになる人がいる。「そいつは駄目だ」と言われると「好きなんだからいいじゃない」とムキになる。僕も「好きなんだからいいじゃない」と思います。ただ「私の好きなもの」が「優れたもの」とは限らないということは受け入れます。あなたがそれを好きなのは別にいいけど、でもそれは下らないよ、と。僕だって、つまらないものに感動しちゃうことありますから。でも感動した事実があるからそれが優れてるなんていうのは、嘘ですよ。自分の安っぽさが露呈しただけです。

好み人気が別の指標だということに異論のある人は少ないだろう。「それは私の好みだが、世間ではあまり人気がない」とか「好きじゃないけど、流行ってるよね」とかいう物言いが論理的矛盾を含むとは誰も思わないだろう。だが、ここに優劣という第三の尺度を持ち出すと、一挙に話がややこしくなる。
筆者は優劣好み及び人気と峻別している。上の引用文の第2段落で、まず優劣人気に還元する物言いを取り上げて批判する。続く第3段落では、優劣好みに同化する考えを退ける。直観的にはどちらも正しいように思える。
優劣と他の二つの尺度との間に次の2つの主張が成立するように思われる。

  1. 「優れているが好みではない」または「劣っているが好みである」という物言いは論理的矛盾を含まない。
  2. 「優れているが人気はない」または「劣っているが人気がある」という物言いは論理的矛盾を含まない。

これら2つの主張をともに支持するならば、優劣好みとも人気とも異なる指標であるという見解も支持することになるだろう。だが、「優劣をいかにして知るのか?」という問いを立てると、とたんに訳がわからなくなってくる。
これが好みの話なら簡単だ。誰でも自分の好みは直観的に知っている*1だろう。他人の好みは直接知ることはできないが、当人にとっては直知されているものとして諒解されている。
これが人気の話でも簡単だ。統計的手法により人気は数値化され、誰の目にも明らかな形*2で示すことができる。
これが優劣の話になると……直観にも統計にも頼ることができないとすれば、いったい何によって知ることができるのだろうか?*3
この問いに対する答えは「趣味」という言葉*4によってある程度示唆されている。だが、決して十分なものではない。もし趣味も個人の直観の領域に属するのだとすれば、好みとの区別が難しい。逆に社会的なものだとすれば、人気と同様に統計的処理が可能なのではないか。
どこかに抜け道があるような気もするが、どこにあるのかがわからない。

*1:意識されていない好みというものもあるので、誰しも自分の好みの隅々まで完全に知っているわけではないが、今はそのような微妙な論点は棚上げにして大筋だけを考えることにする。

*2:もちろん、統計的センスのない人にとっては全然明らかではないし、そのような人がとった統計は全く信用できないが、今はそのような横道にそれずに真っ直ぐに進むことにする。

*3:言うまでもないことだが、ここで提起されている問題は、「いかにして確実性を担保するのか」という好み及び人気にも共通の問いではなく、「いかにして接近するのか」という問いである。

*4:しばしば「趣味」は「好み」の同義語として用いられるが、この文脈ではもちろん区別して考えなければならない。