区分はあたまのなかになく、美醜は心のなかにない

アイデンティティ」という言葉を見聞きすると、論理学用語としてのそれを真っ先に思い浮かべる傾向がある*1ので、この文章を読んでいる最中、「ぼくはぼくだ」というフレーズを見るたびに奇妙な感覚にとらわれた。海燕氏はまさに、いらないと言っている当のものに依拠した議論を行っている!
もちろん、これは皮相な見方に過ぎない。海燕氏のいう「アイデンティティ」は論理学用語ではなくて、心理学用語なのだから。コメント欄やブクマコメントで別の言葉への言い換えを提唱している人もいるが、差し当たり海燕氏が「アイデンティティ」という言葉で何を言い表そうとしているかがわかっている限り、この点はあまり大きな問題ではない。
さて、海燕氏の主張は非常に明快で、大部分は同意できるのだが、一つだけどうしても承服できないところがある。
それは

 いうまでもなく、世界とは本来、ネームプレートが付いて分類されているようなものではない。そこにひとつひとつに名前を付け、整理し、優劣を見出すのは人間だ。
 逆にいえば、そのような区分は人間のあたまのなかにしかない。民族も人種も、そしておそらくは性別も、すべてそうやって生み出された概念である。

とか

 そう、本来、自然界には「美しい」ものも「醜い」ものもない。それらはただそこに存在しているだけである。
 しかし、人間は世界をありのままに感じることは出来ないため、良いの悪いの、清らかだの汚いのと区分して理解することになる。美も、醜悪も、ひとの心のなかにしか存在しない。

という箇所にあらわれている、主観と客観の二分法に基づく主張だ。一方に「世界」や「自然界」という客観的な世界があり、そこに属さない事柄はすべて自動的に「あたまのなか」や「心のなか」という主観の世界に押し込められてしまう。
もちろん、海燕氏は意図的に詭弁を弄しているわけではないのだろう。この二分法の図式は海燕氏の文章ではしばしば見られるもので、おそらく氏にとってこの図式はことさら意識することなく自然に受け入れているものだと思われる。
だが、この図式はしばしば事実を歪めてしまうものなので、図式化が可能かどうかは個別例に即して注意深く判断しなければならない。今、引用した上の事例だと、物事に名前を付けるという活動は明らかにあたまのなかで生じる出来事ではない。また、下の事例についても、人間が美醜を区別するということから、心のなかへと一足飛びに話が飛躍してしまっているので異論の余地*2がある。
ラディカルな哲学者なら、森羅万象を何がなんでも主観の領域と客観の領域にまっぷたつに分けたいと思うかもしれない。だが、日常レベルの話から一気に世界の根本原理へと飛んでいく必要はない。まずは、主観と客観のあいだに間主観*3の領域があるという穏健なところから話を始めようではないか。そうすれば、あたまのなかをのぞきこんだり、心のなかを見つめたりするのとは違った何かが見えてくるかもしれない*4

追記

文中で一箇所、「頭」となっていたのを「あたま」に変更しました。小学生でも知っている漢字を開くのには若干抵抗があるものの、今回は海燕氏にあわせておこうという判断をしたので。

*1:たぶん、これは日本語の標準的な話者の反応ではないだろう。「ジェンダー」という言葉を見聞きするとインド・ヨーロッパ語族の文法を連想するのと同じくらいに偏った反応ではないかと思う。

*2:たとえば、趣味の悪さというもの - good2ndの日記で示されている見解は、美醜が心のなかにしかないという海燕氏の主張と真っ向から対立するものだろう。

*3:「間主観」という哲学用語がお気に召さないなら、「社会」と言い換えても差し支えない。「社会」でもまだ硬いなら、「人と人の間」と言い換えよう。

*4:見えてくるに違いない、と断言できないのがちょっと辛いところだがやむを得ない。他人にヒントを与えることはできても、その認識を制御することまではできないのだから。