外来語と漢字

「文化」「社会」「概念」「体系」「階級」……。くみあわせの文字をみても、熟語としての意味がさっぱりわからん、というものはあげていけばきりがありません。わざわざ漢字なんぞつかう必要はぜんぜんなかったわけです。「概念」なんてことば、いまだによく意味がわかりませんので使わないようにしているし、「社会」はなんとなくわかるような気がして使ってますけど、「社」と「会」の字の意味から理解しているわけではありません。だから表記は「しゃかい」か、もしくは「ソサイエティ」「ソシエテ」とかでもぜんぜんいいんじゃない?

第二種の方式は、漢語のことばの原意に改造を加え、西洋語の概念に適合させた訳語として使うものである。この方式を通して作られた訳語は非常に多い。たとえば革命・芸術・文化・文明・文学・封建・階級・国家・演説・民主・自由・経済・社会などはみなこれに属する。すでに述べたとおり、いくつかの漢語のことばは日本に輸入された後、意味がひとりでに変化した。たとえば「経済」「社会」などである。日本の学者はこれらの漢語を「economy」「society」など相応する西洋語の概念に当てはめるとき、さほどためらわなかったようだ。さらに多くの場合、日本の学者は漢語のことばの原意に対して意識的な加工を加えてようやく、ある西洋語の概念のために一個の大体合っている訳語を選定することができたのだった。まさに漢語の言葉の意味が抽象化したのは、日本の学者が漢語の語彙を改造した一つの道筋だった。たとえば「階級」という言葉は、漢語の原意は階段と官位俸禄の等級を指しており、抽象的な意味はそなえていなかったが、日本の学者が「階級」を西洋語の「class」の訳語とした後、この言葉は大いに抽象化したのだった。また別の過程では、漢語のことばの原意が縮小し、その原意の中の一部分だけが取り出されて西洋語の概念の訳となった。たとえば「文学」という言葉の漢語の原意はひじょうに広く、一切の文字形態の書籍文献はすべて「文学」に含まれていた。漢・唐では「文学」というのは官職名でもあった。それを日本の学者が「文学」を西洋語の「literature」の訳としたとき、その中の一部分の含意だけを取り出したのである。さらにもう一つの道筋があり、漢語のことばの字を借りるだけでその意味は完全にはとらず、甚だしい場合は漢語の原意と完全に相反する意義を与えることがあった。たとえば「民主」という言葉は、漢語の原意は「庶民の主宰(=君主)」であったのに、日本の学者が西洋語の「democracy」の訳語として用いたときから、漢語の原意とまるきり対立する意味を表わすようになったのである。