「職務上の謎」派の快作『傍聞き』

傍聞き

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いろいろあって一週間のばしのばしになってしまったが、気にせずに感想文を書くことにしよう。
『傍聞き』は第61回日本推理作家協会賞短編部門を受賞した表題作ほか3篇を収録した短篇集だ。選考経過と各選考委員の選評を読むと、他の候補作品を大きく引き離した圧勝であったことがわかる。

選考会はまず短編部門から始まり、五つの候補作すべてについて各選考委員が三段階で評価を行った。その結果、『傍聞き』が最高得点の13点を獲得し、他の四作品はすべて7点で横並びとなった。この時点で『傍聞き』の優位はまず動かないものとなったが、選考委員の一人に『退出ゲーム』を強く推す声があり、再びこの二作品で審議となった。が、結局はすべての選考委員が高得点をつけた『傍聞き』の完成度を推す声が再度強まり、結果、この作品が最終的に受賞作となった。

ここで「選考委員の一人」と言われているのは野崎六助のことだ。このほかの選評では、馳星周がかなりネガティヴなコメントを寄せているが、山田正紀北森鴻有栖川有栖は高く評価している。まあ、誰が読んでも大きなハズレだと感じることはないだろう。破天荒な衝撃作ではないが、堅実かつ捻りの効いた良作だと言って差し支えないと思われる。
以下、少し立ち入った話をするので、念のため「続きを読む」記法を用いることとする。『傍聞き』をまだ読んでいない人にネタをばらすようなことはしないが、なるべく予備知識なしに小説を楽しみたい人はここで立ち去るほうがいいかもしれない。
多くのミステリは犯罪の謎を扱う。きちんと統計をとったことはないが、たぶん9割以上のミステリが何らかの形で犯罪に関する謎を扱っているのではないかと思う。
だが、ミステリが扱う謎は犯罪絡みのものに限られるというわけではない。たとえば、暗号や判じ物など、謎として作られた謎を扱うミステリもあるし、歴史上の大事件を扱ったミステリもある。
また、日常生活のちょっとした出来事に潜む謎に焦点をあてるタイプのミステリもあり、北村薫以降、主として東京創元社を中心として数多くの作家がそのタイプのミステリを書いている。その最も新しい作例は今年の鮎川哲也賞受賞作である七河迦南の『七つの海を照らす星』だ。以下、便宜上、これらの作品群及び作者達を日常の謎」派と呼ぶ*1こととする。
日常の謎」派の作品では、密室殺人や人間消失のような、誰でも状況説明を受ければ直ちにそこに謎を見出すことができるような謎が扱われることは稀で、ごく些細なエピソードの積み重ねの中に謎を見出す能動的なまなざしによって謎解きが始まることが多い。謎が提示されないまま解決される、というケースも珍しくはない。冒頭に派手な謎を置いて読者の興味を惹くのではなく、文章の味わいや会話の妙などミステリ固有のものではない技巧で読者を引っ張らなければならないので、作者にかなりの力量が要求されることとなる。また、一つの謎で長丁場を持たせるのが難しいため、「日常の謎」派のほとんどの作例は短篇または連作短篇となっている。
『傍聞き』に収録された4篇は、謎の取り扱い方という点において、「日常の謎」派の諸作によく似ている。しかし、『傍聞き』を「日常の謎」派に含めてしまうことには躊躇せざるをえない。というのは、『傍聞き』所収の各篇で扱われているのは、いずれも職業人が仕事をするうえで体験した出来事だからだ。「迷い箱」は保護司、「899」は消防士、「傍聞き」は刑事、「迷走」は救急救命士をそれぞれ主人公としている。彼らには当然のことながら与えられた職務があり、当然のことながら日常生活もあり、当然のことながら仕事と生活は連続している。その中で起こったさまざまな事件、あるいは、通常は事件とはみなされないような出来事の数々の中に謎が仕込まれていて、もし予備知識がなければ途中まで一般文芸*2だと思って読んでしまうかもしれない物語の終盤に至って、謎解きのプロセスを通じて、予め仕込まれた謎が立ち現れてくるという仕掛けになっている。
日常の謎」派には含めがたい、しかし、「日常の謎」派に非常によく似通っている『傍聞き』の特徴を表すために思いついたのが、「職務上の謎」派という言葉だ。少し仰々しいような気もするが、決してただのハッタリではない。「派」という一字を加えたのは、同じ路線に先行する作家がいるからだ。『傍聞き』を既に読んだ人はもちろんのこと、未読の人でも、ここまでの説明だけである作家の名前を連想したのではないだろうか?
そう、横山秀夫だ。
『傍聞き』はプロット、人物造形、そしてタイトルのつけ方に至るまで、横山秀夫によく似ている。実際に作者がどの程度、横山秀夫の影響を受けているのかは知らないが、読者の立場からみれば、これらの類似を見て見ぬふりをすることはできない。ただ、そのことから直ちに『傍聞き』及び長岡弘樹へのマイナス評価が帰結するかどうかはまた別の問題だ。厳しい人なら「横山秀夫の亜流」の一言で一刀両断に切って捨てるかもしれない。だが、もしかしたら我々は今まさに「職務上の謎」派の勃興に立ち会っているのかもしれない。これから広がっていく沃野の原点付近で、亜流だのエピゴーネンだのといった評言にどの程度の意味があるのだろうか?
とはいえ、現段階ではまだ仮定の話しかできない。長岡弘樹の今後の執筆活動や、これから出現する(かもしれない)「職務上の謎」派の新しい作家の動向を見てからでないと、正当な評価は不可能ではないかと思われる。というわけで、『傍聞き』のミステリ史への位置づけは後世のミステリ史家に委ねることにしよう。

おまけ1

長岡弘樹の本は『傍聞き』の前にもう1冊『陽だまりの偽り』が出ている。先日、文庫版『陽だまりの偽り』を買ってきて、まだ本篇は読んでいないが、村上貴史氏*3の解説だけ読んだ。
その解説の中でもやはり横山秀夫に言及しているのだが、それに続けて加納朋子光原百合の名前も挙げているのが印象に残った。3人とも日本推理作家協会賞受賞作家*4だが、それに加えて、加納朋子光原百合については「優れた家族小説でもある作品を発表する作家」として紹介されている。解説の中では触れられていないが、もちろん、加納朋子光原百合がデビュー当時「日常の謎」派の作家だったということは偶然ではないだろう……と我田引水しておく。
ところで、この解説で

これら三人の作家に共通するのは、受賞後もコンスタントに良品を発表し続けていることである。そして、長岡弘樹もそうなのだ。

と書かれているのは、話の流れの都合上やむを得ないこととはいえ、若干気になった。横山秀夫加納朋子は確かにコンスタントに書いているが、もう一人の作家は……。

おまけ2

「職務上の謎」派というのはこの文章を書くためにでっち上げた言葉だが、「日常の謎」派のほうは結構よく使われているはず。そこで、「日常の謎」派 - Google 検索で見ると……おお、トップに横山秀夫と日常の謎 - 押入れで独り言という記事が!

横山秀夫を語るのに「日常の謎」派を持ち出したのは、ほかでもない。横山の処女短篇集『陰の季節』(1998)は、じつは「日常の謎」派の流れの作品だからなのだ。この短篇集で描かれるのは、警察官を職業とした人びとの「日常の謎」なのである。

【略】

横山の着眼点が見事なのは、警察官を主人公としながら、犯罪捜査をテーマとするのではなく、かれらの日常に起きる謎を扱った点である。それは新しいスタイルの警察小説であったが、さらに究極の「日常の謎」派でもあった。なぜなら、警察官にとっては、犯罪に関ることが日常であるからだ。彼らの「日常の謎」は、なんらかの形で犯罪に関っていかざるを得ない。「日常の謎」でありながら、なおかつ犯罪に関する謎にもなる。犯罪を扱わないことで、新たな流れを見出した「日常の謎」派であるが、ここでさらに「主として犯罪に関する日常の謎」とでもいうべきものが登場したのである。

日常の謎」派という言葉の射程を広く見積もるか狭く限定するかの違いはあるが、基本的には上で書いたことと同じ発想だ。1ヶ月先を越されていたとは残念だ。

*1:いくつか留意事項がある。第一に、「日常の謎」派の始祖は北村薫ではない。第二に、「日常の謎」派は必ずしも犯罪の謎と排他的なものではない。第三に、「日常の謎」派という一語では総括しがたいバリエーションが存在する。

*2:ここでは「一般文芸」という言葉をミステリ、SF、ホラー、ファンタジーなど特定のジャンルに属さない小説という程度の意味で用いている。ライトノベル関係の文脈での「一般文芸」とは異なるので注意されたい。

*3:作家の場合は敬称を省くことにしているのだが、ミステリ書評家を呼び捨てにするのはなんとなく違和感があるので、「氏」をつけた。厳密なルールではないし、「作家兼書評家はどうするんだ?」と訊かれても答えられないのだが……。

*4:加納朋子「ガラスの麒麟」で第48回 日本推理作家協会賞短編および連作短編集部門を、横山秀夫「動機」で第53回日本推理作家協会賞短編部門を、「十八の夏」で第55回日本推理作家協会賞短編部門をそれぞれ受賞している。なお、それぞれの受賞作を表題作とする短篇集ないし連作短篇集が刊行されている。