生きるということは手段ではない

しかし。ぼくに言わせると、その思想の一番おおもとにある(暗黙の)前提が間違っているので、そこから展開する論のすべてが無効になっています。その前提とはなにか? それは「生きることにはそれだけで価値があり、人は生きなければならない(死んではならない)」というものです。

そんなものは、フィクションです。ファンタジーです。生とは目的ではなく手段です。生きるのは、なにごとかを為すためです。

だってさー、考えてもみてくださいよ。派遣で安い給料で働いて、辛かったり、苦しかったり、悲しかったりいろいろで、それで派遣切られて、寒かったり悔しかったりで、派遣村に流れ着いて、まだ「仕事をください」と。そこまでして、そこまでして。そこでさ、「あなたは何のために生きているんですか?」って聞かれて、もし答えらんなかったらさ、ごめんぼく笑っちゃうかもしれませんよ。「特にやりたいこともないのに、なんでそこまでする必要があるの?」って。

「あなたは何のために生きているんですか?」などと聞かれて即答できる人など、そう多くはいない。それに、もし答えられたとしても、人々を納得させることは難しいだろう。
なぜか?
簡単なことだ。生きるということは、何らかの目的のための手段ではないからだ。
「生とは目的ではなく手段です」という思想の一番おおもとにある(暗黙の)前提が間違っているので、そこから展開する論の多く*1が無効になっている。その前提とはなにか? それは「生きるということは目的か手段かどちらかにちがいない」というものだ。
目的か手段かどちらかの選択肢しかなく、かつ、目的でないなら、残るのは手段だけだ。かくして「生きるのは、なにごとかを為すためです」という結論が得られる。
しかし、これは物事を過度に単純化している。
「コーヒーをいれるために湯を沸かす」とか「寝坊しないように目覚まし時計をセットする」とか、そういった「目的−手段」関係がはっきりした単純な例とは違って、生きるということの中には種々雑多な要素が詰まっている。それらの要素を細かく分析すれば、個別に「目的−手段」の枠組みに秩序づけて整理することができるかもしれない*2が、生そのものを目的か手段かどちらかに位置づけるというのはどだい無理なことだ。
生とは目的でもなければ手段でもなく、さまざまな目的や手段が生成するである。自体には価値はないかもしれないが、がなければ価値もない。
昔、物事すべてを明暗で二分する哲学屋がいたそうだ。その人物は「明るさ」について明暗いずれかを問うた。その結果、「明るさ」そのものは明るくないから暗い、という馬鹿馬鹿しい結論に達した。「なにのために生きるのか?」という質問を見聞きするたびに、この哲学屋のエピソードを思い出す。

それでもなお、「生き“なければならない”、そんなのあたりまえ」と思いたいならそれはそれでいいと思います(上で引用した本のタイトルの象徴的なこと!)。しょせん、ぼくの語ることもフィクションでファンタジーです。どっちのフィクションが肌に合っているか、どっちのファンタジーを選ぶか、っていうだけです。(そしてぼくの語るやつが合ってる、って人のほうが少ないのは必然です。理由はわかりますよね?)

この話に限ったことではないが、単純に二者択一の選択を迫るような議論を見かけたら、眉に唾をつけてかかったほうがいい。別にどっちも選ばなくていいじゃん。

追記

上の文章を書いたあとで思いついた反論。
「なるほど、確かに通常の場合なら生にはさまざまな目的-手段が含まれているのかもしれない。だが、派遣村に流れ着いた人はどうか。余計な要素が切り捨てられて『生きる=明日まで生き延びる』という純化された生を生きているのではないか?」
そういえば、派遣村の人がタバコを吸っているのを非難した人がいたが、もしかすると、そういう人なんかは「派遣村にいる人々の生は純化されているべきだ」と考えていたのかもしれない。
それはともかく。
いかに切羽詰まっていようが切り詰められていようが、未来がある限りは生は複雑さを保ち続ける*3ので「なんのために生きるのか?」という問いは効力を持たないと思う。一歩譲って、この問いがその瞬間には効力をもつとしても、それに対する回答は「なんのために生きるのか、って? そりゃ、『なんのために生きるのか』なんていう馬鹿馬鹿しい問いから逃れるためにさ」で済むだろう。実際、さまざな目的や手段をちゃんぽんにして生きている人々は「なんのために生きるのか?」などという問いには関わらない*4ものだ。
本文の議論から少し逸れてしまったような気がする。もしかしたら、言っていることに齟齬や矛盾もあるかも。機会があれば、この思いつきをもうちょっと整理して考えてみたいが、とりあえず今は思いつきのまま投げっぱなしにしておく。

追記の追記

本文には、生きるということについて二つの互いに矛盾する考え方が混在している。

  1. 生きるということは、目的をもったり手段であったりする事柄とはレベルが異なる事柄であり、「なんのために生きるのか?」という問いは無効である。
  2. 生きるということは、さまざまな手段や目的の集まりであり、「なんのために生きるのか?」という問いは無効である。

この点で批判を受けても仕方がないとは思っているのだが、コメント、トラックバック、ブクマなどをざっと見たところでは、それを指摘したものはなかった*5。だが、根本的なところで考えがふらついているのは確かだ。
日本語の「生きる」という言葉には状態を表す用法と諸行為*6を表す用法があり、そのどちらを採用しても「生きるということは手段だ」という主張への反論が構成できる*7ということを示した……というのは言い訳で、厳密な概念操作に頭がついていかなかったというのが本当のところだ。

*1:すべて、とは言わない。後段には一部見るべきところがあると思うので。しかし、ここでは本題に話を絞りたいので触れないことにする。

*2:だが、すべての要素を系統化することは無理だろうと思う。

*3:では、終末医療の現場などはどうか? これはよくわからないが、別の考慮が必要になるかもしれない。

*4:知的遊戯として検討することはあっても、自らの人生の問題としては関わらない、ということ。

*5:もちろん、気がついている人は気がついているはずだ。

*6:「諸行為」という言葉はあまり見慣れないと思うが、単一の行為ではなく、さまざまな行為の集積ということ。英語なら複数形で書けばいいが、日本語にはそういう文法上の道具がないので、少し不自然な言葉になった。

*7:また「生きるということは目的だ」という主張への反論にもなる。