「地域振興」という美名の下で

最近、なんとなくぼんやりと考えていることを、あまりまとまりもないままに適当に書き飛ばすことにした。読みにくいかもしれないので予め謝っておく。ごめんなさい。
さて、「地域振興」だ。括弧に入れたのは、この語を使用(use)するのではなく、言及(mention)しているということを表すためだが、だからといって字面に拘るつもりはない。別に「地域再生」でも「地域活性化」でもいいし、「地域」を含まない「まちづくり」や「むらおこし」でも構わない。それぞれ少しずつニュアンスが違うことばだが、ここではそのような細部には立ち入らない。以下、これらの語を「地域振興」で代表させることにする。
「地域振興」を声高に主張する人々がいる。役所やその外郭団体に多いが、商工会や観光協会などの民間団体の中にもいる。「地域振興」はよいことであり、それは是非とも推進しなければならないことだ、と考えられている。そのような人々の活動や主張はしばしばマスメディアに報道されるが、その際にも、「地域振興」がプラスの価値を持つことは大前提となっている。事件や不祥事を扱うときには、これでもかとばかりに非難するメディアがなぜか「地域振興」の話題を取り上げるときには生暖かい目でそれらの人々の活動を見守るのだ。
でも、本当に「地域振興」っていいことなんだろうか? こういう疑問を抱いたのには理由がある。「地域振興」を旗印として行われる活動のすべてではないにせよ、その多くが観光資源や特産品などを域外の人々にアピールするという要素を含んでいるのだが、どうも自分の地域が抱えている課題をよその人にどうにかしてもらおうという下心が透けて見えるのだ。もっとはっきり言えば、観光客を「地域振興」の道具として使おうという魂胆がありありと表れている。
「地域振興」に熱心な人に話を聞いてみればわかるが、多くの人は自分の魂胆を隠そうとしない。いかによその人の目を自分の地域に向けさせるか、そして、地域に金を落とさせるか、ということを熱く語ってくれる人もいる。他人を目的としてではなく単に手段として用いるのは、カントを引き合いに出すまでもなく、浅ましくて下品なことだと思うのだけれど、彼らはそういう発想を持っていない。「地域振興」という錦の御旗があれば、たいていの行為は正当化されるのだ。いや、正当化の必要性すら感じていないのかもしれない。
彼らが手段として用いるのはまれびとだけではない。たとえば、ある古典芸能のサークルを運営している人に話を聞いたときに、その人が「私たちは別に○○をやりたくて○○をやっているんじゃない。地域振興の手段として○○をやっているんだ。勘違いしないでいただきたい」と言うのを聞いて閉口したことがある。なお、「○○」には古典芸能のジャンル名が入るのだが、本人がここを読んでいて自分のことを書かれていると気づくと後々気まずいことになりそうなので伏字にした。たまたま○○は個人的には特に思い入れのある分野ではないので怒りはしなかったけれど、その時「この発言を○○のことが本当に好きな人が聞いたら気分を害するだろうなぁ」と思ったことを覚えている。
一事が万事この調子で、「地域振興」に積極的に関わる人はありとあらゆることを「地域振興」に奉仕させようとする。「地域振興」とはそれほど崇高で有難いことなのか。でも、実際にやっているのはお金儲けですよね? そう言ってしまいたいのだけど、面と向かってそんなことを言うと喧嘩になるから黙っていることにしている。
ここで、大急ぎで付け加えておかなければならないのだけど、別に金儲けが悪いと言っているわけではない。金儲けのためならどんなに破目をはずしても構わない、とまでは言わないが、適切なルールの範囲内で金儲けをするのは差し支えない。何が適切なルールで何がそうでないのかということを検討し始めると長くなるのでここでは論じるつもりはない。大事なのは、金儲けそのものはいいことでもなければ悪いことでもないということだ。金儲けは、金儲けをしたい人が勝手にすればいい。
だったら、「地域振興」という美名のもとでの金儲けも同様にしたい人が勝手にすればいいことであり、ことさら非難すべきことではないのでは? なるほどそういう理屈もあり得る。ただ、「地域振興」という言葉を出してくる人々は相互不干渉主義者ではないということに留意する必要がある。「地域振興」は善であり、善をなさざるものはそれだけで悪をなすに等しい、と彼らは考える。ありとあらゆる手段を使って「多様な主体の協働」の実現を図ろうとする。「地域振興」に関心のない者を取り込んで、プロジェクトの片棒を担がせようとする。笛吹けど踊らぬ人を見ると、「地域振興」にあだなす悪人とみなして憎む。あるいは「地域振興」の意義を理解できない愚か者だと見下す。かくして、「地域振興」界隈は憎悪と歪な優越感の入り混じったどろどろぐちょぐちょの闇黒空間と化す。
まあ、それでも「地域振興」がうまく推進できればまだいいが、ほとんどの場合に「地域振興」への取り組みは失敗する。それも、想定外のアクシデントによるのではなく、失敗すべくして失敗する。成功するほうが例外で、そういう例があれば「先進事例」と誉めそやされて全国各地から続々と視察に訪れる。そして、数え切れないほどの「後続事例」が生まれ、みな失敗する。
どうあがいても失敗につぐ失敗、地域の衰退を食い止めて再び勢いを取り戻すどころか、地域に残されたわずかな資源を食いつぶして衰退に拍車をかけることもある。だが、彼らは諦めない。失敗したのは根気が足りなかったからだと考えるのはましなほうで、あいつが非協力的だったからだ、こいつが足並みを乱したからだと醜い争いを繰り広げる。この状態を何と言えばいいのか……ええと、無明ですか?
どこかに光はないものか。探してみたけれど、どうもありそうにない。光がどこからも差してこない闇の中、それが「地域振興」なのだと気づくことこそが、ある意味では唯一の光なのではないか。最近はそう思うようになってきた。だが、これはまだまとまった考えではない。下手に人前で主張したりすれば、敗北主義者の戯言か負け犬の遠吠えとしか思われないだろう。もしかしたら何も違いはないのかもしれないが、まだそう断定できるほど心の整理がついていない。そういう次第で、自分自身もまた闇の中を徘徊している今日この頃だ。
具体的な事例を挙げて説明すればもっとわかりやすい話になったのだが、特定の個人や団体を誹謗中傷するのが目的ではないのであえてぼかして書きました。再度謝っておきます。ごめんなさい。