肉をたべること、動物をころすこと

ここに単純な事実がある。肉を たべるということは、動物を ころすということだ。肉が たべたいということは、動物を ころしてでも たべたいということだ。ころしたくはないけど たべたいということは、それこそ「いってはいけない」わがままであるはずだ。動物を ころして たべる。それが、肉食者の日常なのだ。

この記事は、つぎの 屠場(とじょう)労働者は、はたして笑顔で いられるのか。社会全体の問題だ。 - hituziのブログじゃがーと あわせて よむことで はじめて筆者の意図が わかるようになっている。だから、この部分だけを きりだして論じることに あまり意味はないのだけど、うえで引用した箇所を よんだとき、ふと おもいついてしまった ことがあるので、文脈をわきまえずに かいておくことにする。
肉を たべるということは、動物を ころすことだ、と筆者は断言している。なるほど、おおくの場合は ころした動物の肉を ひとは たべている。だが、つねに そうであるとは かぎらない。例外的なケースが すくなくとも ふたつある。

  1. 屍肉を たべる場合
  2. 動物を いきたまま そのからだの一部を きりとって たべる場合

もちろん、これらのケースは非常に まれなことであって、実際に体験したことのある人はほとんどいないのではないかと 思う。したがって、このような例をもとに うえの主張に対して反論するのは、ただの「あげあしとり」に ちがいない。
ただし、屍肉を たべたり、生体から きりとられた肉を たべたりしたことが全くない、と正当な根拠をもって断言できる ひともまた、ほとんどいないのではないか。だれしも いま自分が たべている肉がそんな肉ではないと おもいこんでいるが、その おもいこみを十分に うらづける情報を もっている ひとは、ごくごく かぎられている。
ここには なにか 重要な思考のヒントが かくされているのではないか。そんな気が するのだけれど、いまのところ うまく表現することができない。いまは ただ おもいつきを 提示しておくのみ。