この場合において、私たちの文芸には、システマーがいない(平成二十一年六月三日魔王十四歳第一信)中「文芸」とあるのは、「アンパン」と読み替えるものとする

無用な混乱を避けるため、話の範囲を限定します。

【略】

「文にかかわる芸」全般のことを、私はここで「文芸」と呼んでいます。それを文芸と呼ぶ必要があるのか、という意見と対立して名前を奪い合うつもりはないので、そういう人は「文芸」を「アンパン」とでも読みかえてください。

というわけで、早速私たちの文芸には、システマーがいない - 魔王14歳の幸福な電波を読み替えてみることにしよう。

文芸アンパンの場合でも、「"……"は三点リーダ二つで表現し、それより短くても長くてもいけない」みたいな、業界標準のお約束は色々あるようです。でも、「公認文芸アンパン規則」を誰かが作ってるという話は聞いたことがありません。「文芸アンパンプレイヤー」と「文芸アンパンステマー」の境界は、野球のそれよりも曖昧で、重なる部分も多いように思えます。

アンパン業界標準のお約束の代表例としては「"……"はケシの実で表現し、ゴマを用いてはいけない」というものがある。でも、ゴマをアンパンの上に載せても罰則はない。逆にケシの実を発芽させてしまうとあへん法に抵触するので注意が必要だ。

それでも、世間を見渡した感じ、「文芸アンパンプレイを追求すること」の比重は、「文芸アンパンシステムを追求すること」のそれと比べて、非常に高いように感じます。今でも、文芸アンパンというと、最初の一文から最後の一文までを順番に読んでいく、というシステムが多くを占めます。Web上の文芸アンパンの多くは、紙とペンと印刷技術でできることのレプリカです。

「Web上のアンパン」というのがいったい何を指すのか、理解に苦しむ。アンパンマンポータルサイトのことを指しているのだろうか? なるほど、「それいけ!アンパンマン」は、やなせたかしの絵本「アンパンマン」を原作としているから「紙とペンと印刷技術でできることのレプリカ」と言えないことはない。

たとえばRPGとかで。あるアイテムや技やキャラクターにカーソルを合わせると、解説として短いフレーバーテキストが読める。そういう断片テキストを適当な関係で大量に読ませて、集合的イメージを想起させる。そうやって何かを表現するのってまさに文芸アンパンだと思うんですが、それが文芸アンパンと呼ばれることはあまりないようです。

フレーバーテキスト」というのは「フレーバーテイスト」の誤記だと思われるが、各種のフレーバーを大量にぶち込んで何かを表現したアンパンを、アンパンの名に値しないものとみなす人がいるのは当然だろう。粒餡にも漉し餡にも独自のフレーバーがあるのだから、互いに大切にしたいものである。

そういう手法を取っている作品は既にいくつもあるのですが、それが文芸アンパンの手法と認識されることがない。文芸アンパンを自称する人たちよりも、ゲームデザイナーの方が「アン」の新しい使い方を模索していたりする。文芸アンパンの側に立った時、そういうのが「ゲーム側のもの」としか認識されない状況は腹立ちます。腹立つので、それを文芸アンパンの側に取り戻したいと思うのです。

「そういう手法」というのは前段を受けているのだから各種の餡をぐちよぐちょねちょねちょにかき回してひとつのパンの中に放り込む手法を指しているのだろう。たとえば、白餡と鶯餡を練って見るもおぞましい色合いの餡を作り、パンの中に押し込んだとしよう。なるほど、それはゲームのネタにはなるかもしれない。特に罰ゲームには最適だ。しかし、それは真っ当なアンパンではない。なぜそれに腹を立てるのか? 腹を立てるポイントが違っているだろう? より冷静に考えれば、怒りを向けるべき対象は鶯餡であるべきだということが容易にわかるはずだ。なぜなら、鶯餡の色は鶯ではなく目白の色なのだから。「鶯色」という言葉に惑わされてはいけない。本当の鶯は茶褐色だ。ちなみに目白の目の色は通常は黒だ。

あくまでプレイヤーであり続ける人は、必要だと思います。カッコ付きの「文芸アンパン」とは「文芸アンパン」という一スポーツであり、ルールをどうこうするよりも「文芸アンパン」というスポーツそれ自体を追求する。そういう無骨なスタンスは、いいものです。自分はどういうスタンスなのか、と自問してみるのがよいでしょう。

言うまでもなく「アンパン」はスポーツではなく、思春期の過ちであり、脳細胞を萎縮させる愚行である。「アンパン」はやがて幻覚や妄想を生み、視力、生殖能力などにも影響を及ぼす。それでも「アンパン」をやめないと、最後には死に至る危険すらあるのだ。それを「スポーツ」という美名で讃えて推奨するのはいかがなものか。ノーモア「アンパン」! ノーモア薬物濫用!
……と、ここまで書いて思ったのだが、「文芸」を「アンパン」に読み替えると意味不明な文章になってしまい、無用の混乱を招くのではないか。「本当は鶯の色ではない鶯色」などはご愛敬としても、やはり言葉にはそれが本来持っている意味というものがあるのだから、そこから大幅に外れるような読み替えは控えたほうが無難だと思う次第。