「こころづかい」も「思いやり」も見えません

今さらながらACジャパン見える気持ちに。にツッコミを入れてみたくなった。
「こころ/こころづかい」「思い/思いやり」を対比して、それぞれの対の前者は見えないけれど後者は見える、と言っているのだが、これはどう考えても変だ。
なるほど、「見える」という言葉の用法によっては「こころづかい」や「思いやり」は「見える」と言って差し支えないだろう。でも、もちろんそれらは直に網膜に像を結ぶわけではなく、なんらかの行為を通じて伝わってくるもの、あるいは、行為の意味として読み込まれるものに過ぎない。
「見える」の意味を狭くとれば、当然のことながら「こころづかい」も「思いやり」も、どちらも「見えない」のだし、逆に広くとるなら「こころ」は「こころづかい」を通して、「思い」は「思いやり」を通して、それぞれ「見える」と言えるのではないだろうか。
つまり、このCMは「見える」という、さまざまな仕方で用いられる言葉を恣意的に切り取った上で、あるものは「見える」、別のあるものは「見えない」と言っているわけだ。
ところで、このCMは宮澤章二「行為の意味」によっているが、どうやら原文そのままではないらしい。「らしい」と書いたのは、この詩を収録した本を直接参照したわけではないからだ。

行為の意味―青春前期のきみたちに

行為の意味―青春前期のきみたちに

「行為の意味」の全文を転載しているウェブページがあった*1ので読んでみたのだが、原文では「こころづかい」「思いやり」を「人に対する積極的な行為」と表現している。
これはちょっと意外な盲点だった。
「こころづかい」や「思いやり」を行為そのものとは別のものとして捉えるのではなく、行為そのものが「こころづかい」であり「思いやり」なのだと捉えるならば、きそれらは狭い意味で「見える」ことになるだろう。電車で妊婦に席を譲ったり、階段をのぼる老人の手助けをしたりすること、それら自体が「こころづかい」であり「思いやり」であると捉えるならば。
仮に世界を「心の世界」と「物の世界」に真っ二つにぶった切ったとして、「こころづかい」や「思いやり」はどちらの世界に属するのかと問うたなら、かの詩人なら「それらは行為だから、物の世界に属する。だから、それらは見えるのだ」と答えたかもしれない。

*1:著作権法上問題がありそうなのでリンクはしない。検索すればすぐに見つかるので興味のある人は自分で探してみてほしい。なお、内容とは関係ないが、当該ページの更新日が今年の3月10日になっていることに驚いた。