「こころづかい」も「思いやり」も見えません
今さらながらACジャパンの見える気持ちに。にツッコミを入れてみたくなった。
「こころ/こころづかい」「思い/思いやり」を対比して、それぞれの対の前者は見えないけれど後者は見える、と言っているのだが、これはどう考えても変だ。
なるほど、「見える」という言葉の用法によっては「こころづかい」や「思いやり」は「見える」と言って差し支えないだろう。でも、もちろんそれらは直に網膜に像を結ぶわけではなく、なんらかの行為を通じて伝わってくるもの、あるいは、行為の意味として読み込まれるものに過ぎない。
「見える」の意味を狭くとれば、当然のことながら「こころづかい」も「思いやり」も、どちらも「見えない」のだし、逆に広くとるなら「こころ」は「こころづかい」を通して、「思い」は「思いやり」を通して、それぞれ「見える」と言えるのではないだろうか。
つまり、このCMは「見える」という、さまざまな仕方で用いられる言葉を恣意的に切り取った上で、あるものは「見える」、別のあるものは「見えない」と言っているわけだ。
ところで、このCMは宮澤章二「行為の意味」によっているが、どうやら原文そのままではないらしい。「らしい」と書いたのは、この詩を収録した本を直接参照したわけではないからだ。
- 作者: 宮澤章二
- 出版社/メーカー: ごま書房新社
- 発売日: 2010/07/06
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これはちょっと意外な盲点だった。
「こころづかい」や「思いやり」を行為そのものとは別のものとして捉えるのではなく、行為そのものが「こころづかい」であり「思いやり」なのだと捉えるならば、きそれらは狭い意味で「見える」ことになるだろう。電車で妊婦に席を譲ったり、階段をのぼる老人の手助けをしたりすること、それら自体が「こころづかい」であり「思いやり」であると捉えるならば。
仮に世界を「心の世界」と「物の世界」に真っ二つにぶった切ったとして、「こころづかい」や「思いやり」はどちらの世界に属するのかと問うたなら、かの詩人なら「それらは行為だから、物の世界に属する。だから、それらは見えるのだ」と答えたかもしれない。