無意識の「餌付け」

ドングリ撒きを「餌付け」といって、糾弾してくるのもよかろう。

たしかに、ドングリを直接意識的に一握りを撒いて、そこにやってくる動物たちを撮影しながら見てみようということなので、これは狭義の「餌付け」である。

しかし、ここで「餌付け」とはなんぞやというところに思いを馳せて欲しい。

餌付けにも、人間が意識して直接的に与える「餌付け」(これはコントロールができる)と、人間がまったく知らないところで無意識に間接的にやってしまっている「餌付け」(コントロール不可能)のあることに、気づいてほしいからだ。

これがよくわからない。狭義の「餌付け」を行うのは人々に無意識の「餌付け」への気づきを促すためだ、というふうに読んだのだが、わざわざそんな事をしなくても、単に無意識の「餌付け」に注意を喚起すればいいだけのことではないだろうか?
そもそも、無意識の「餌付け」と呼ばれる事象があることは、野生動物保護管理の初歩的な知識であり、「人間中心でしかモノを見ることができない」人であっても「自分自身の小さな自然観におぼれてしまう」人であっても、多少ともこの分野に関心があれば知っているはずのことだ。これは単に知識の問題に過ぎず、自然観がどうこうという大きな話を持ち出すまでもない。知らないのは単に勉強不足だ。
ためしに、Wikipediaの「餌付け」の項を見てみよう。そこには、「無意識の餌付け」という節がある。

野生動物被害との関連で問題になっているものに意識しない餌付けがある。たとえば果実畑において、出荷されなかった果実を畑の片隅に放置すれば、動物がこれを食べにくることが考えられる。その結果この果実はその動物の餌のリストに加えられ、また畑は採食の場と認識されることになる。結果として畑の作物で餌付けをしたのと同じことになるであろう。

また、過疎によって人目が少なくなったことから、お墓のお供え物や庭先の柿、ゴミ捨て場の残飯なども動物が食べに来やすくなったこともこのような効果をもつ。

また、例えばキャンプの際の食物ゴミなどを安易に放置すれば、これも動物が食べることがある。結果として、人間のそばに餌があることを動物が学習すると、それがクマであればクマが人間のいる場に接近する原因となり、ひいては接触による事故を増加させる恐れがある。そのため、自然公園などでは食物や残飯の処理に注意するように指導されている例がある。

この箇所の筆者が「人間も大きな自然界に組み込まれて自然に保護されながら生きているのだといった謙虚な気持ち」を持っていたのかどうかなどというのは、正直どうでもいいことだ。自然観はときには認識を左右することがあるが、特に「餌付け」を意図しない人間の活動が結果として「餌付け」に類する効果を与えることがあるという認識は、特に自然観に依存するものではないだろう。

オイラは、いつもこのような考えで自然と接しているから、人間社会とそこに生きる人間の姿が見事に冷静にみてとれてしまうから面白い。

そうすると、なんとも些末なことにエネルギーをつかって、自然保護だのツキノワグマ保護だのと重箱の中に入り込んで、隅を突くことしかできない哀れな人間像が滑稽至極に見えてきてしまう。

「重箱の中に入り込んで、隅を突く」という独創的な言い回しにはほんの少し感心したが、この妙にズレた観点から他人を見下す態度には全く共感することができない。
おそらくこの人は、世間一般のふつうの人に比べると、野生動物について多くの知識を持っているのだろう。それはいい。だが、その知識の多さを優れた自然観と直結させてしまっているところが、何ともかんともやりきれない。
熊に「ドングリ撒き」プロジェクト検証実験中 その3 - ツキノワグマ事件簿で宣伝されている『写真ルポ イマドキの野生動物―人間なんて怖くない』は機会があれば読んでみたいとは思うが、さて、農林水産省/鳥獣被害対策コーナーから無料でダウンロードできる「野生鳥獣被害防止マニュアル」以上のものが得られるかどうか……。