偉大なるヨハン・マッテゾンの足跡と伝説

バロック音楽に多少とも関心のある人なら、ヨハン・マッテゾンの名を知らないはずはない。当時の音楽について語る書物を繙けば、至るところで彼の名を目にすることになるからだ。マッテゾンは主として同時代の音楽の諸相を後世に伝える語り部として我々の前に姿を現す。「マッテゾンによれば……」「マッテゾン曰く」というふうに。
しかし、彼自身の音楽についてはさほど知られているとは言いがたい。YouTubeで手軽に聴ける演奏がいくつかあるが、「Mattheson」で検索すると最上位にヒットするのは、なぜかテルミンの演奏だ。

理論家としての名前は広く知られているのに実作者としてはぱっとしない人といえば、全然関係ない分野だが、アントニー・バウチャーを連想してしまう。だが、全然関係ないのでこれ以上は立ち入らないことにしよう。
さて、ウィキペディアの「ヨハン・マッテゾン」の項はいきなり次のような記述から始まる。

ヨハン・マッテゾン(Johann Mattheson, 1681年9月28日 ハンブルク – 1764年4月17日 同地)はドイツ後期バロック音楽の作曲家。音楽理論家・作家・外交官・辞書編纂者といった顔も持つ。 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルと大の親友であったが、マッテゾンの歌劇《クレオパトラ》(1704年)の上演中に、二人は突然いさかいを起こし、マッテゾンは危うくヘンデルを刺し殺しそうになった。ヘンデルは当時の大型の指揮棒を差していたお陰で、辛くも命が助かったという。後に両者は和解している。

このヘンデルとの諍いのエピソードが果たして百科事典の人物の項目の最初のパラグラフに書かれるべき事柄なのかという疑問はもちろんあるのだが、それはそうとして、ヘンデルが指揮棒のおかげで助かったというのはなかなか興味深い。というのは、音楽史上有名な「指揮棒のせいで命を落とした作曲家」がいるからだ。

1687年1月8日、リュリはルイ14世の病からの快癒を祝して『テ・デウム』を指揮した。当時の習慣に従って、長くて重い杖を指揮棒として使い、それで床を打ってリズムをとっていたのだが、誤って足を打ち、膿瘍ができた。やがて傷口から壊疽を起こして、3月22日に急死した。最後のオペラ『アシールとポリュクセーヌ』は未完成のまま残された。臨終の床で「いざ死すべし、なんじ罪びとよ Bisogna morire, peccatore 」と書き残したと言い伝えられている。

リュリの死はヘンデルが2歳のときのことなので、この2人の間に面識はなかったはずだが、リュリの音楽はもちろんヘンデルにも影響を与えている。この2人の人生が指揮棒で明暗を分けたというのは、特に音楽的に意味のあることではないけれど、なかなか興味深い。
と、思っていたら、少し違うことを書いている本があった。

ヘンデル (作曲家・人と作品シリーズ)

ヘンデル (作曲家・人と作品シリーズ)

マッテゾンとヘンデルの友情は、一度、危機に陥ったことがある。一七〇四年、マッテゾンが彼のオペラ《不幸なクレオパトラ》を上演する際、ヘンデルチェンバロの席で通奏低音を担当していた。マッテゾンはアントニーオ役で出演していたが、出番が済むと作曲者としての当然の権利として、通奏低音席に戻るのが常であった。しかし、十二月五日の上演時、マッテゾンが第三幕途中で出番を終え、いつもどおり通奏低音席へ戻ろうとすると、その夜ばかりはヘンデルがそれを拒否したため、二人は劇場の外に出て、剣を抜いて決闘となった。マッテゾンの言うには、彼の剣がヘンデルの胸を突いたが、幸い、外套のボタンに当たって、事なきを得たらしい。二人はすぐに仲直りして、以前にも増して友情を深めた。*1

なんだか中島敦の小説にでも出てきそうな話だ。
いちおう補足しておくと、当時の通奏低音奏者は指揮者を兼ねていることが多かったので、ここで書かれている「作曲者としての当然の権利として」云々というのは、マッテゾンが歌い手としての出番が終わったので指揮に戻ろうとしたら、ヘンデルが指揮を譲らなかったということなのだろう。曲の途中で指揮者が交代するというのは変な気もするが、今から300年以上前のことだからそういうこともあっても不思議ではない。それにしても、作曲者とチェンバロ奏者がいきなり決闘を始めたら、オペラ公演はむちゃくちゃになってしまうと思うが、いったいどう収拾をつけたのだろう?
ともあれ、今引用した記述が正しければ、指揮棒の出番はないように思われる。指揮棒を振りながらチェンバロを弾く人はいないだろうから。でも、ウィキペディアの記述が完全にでたらめとも考えにくい。さて、真実はどっちだったのだろう?
ところで、ウィキペディアには、ほかにもマッテゾンの変なエピソードが紹介されている。

ヨハン・アダム・ラインケン(ドイツ語: Johann Adam Reincken, オランダ語: Jan Adams Reinken, 1643年12月10日 - 1722年11月24日)は、17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ハンブルクで活躍したオランダ出身の作曲家である。オルガン音楽の大家として知られ、ディートリヒ・ブクステフーデとともに、北ドイツ・オルガン楽派の隆盛を築いた。

【略】

従来、ヨハン・アダム・ラインケンは、1623年4月27日にエルザス地方のヴィルハウゼンで生まれたとされてきた。これは、ヨハン・マッテゾンが『音楽批評 第1巻』(1722年)においてラインケンの生年は1623年4月27日であると述べており、ラインケンの父アダム・ラインケンは、1637年にオランダのデフェンターに移住する以前、ヴィルハウゼンに住んでいたと考えられたことによるものである。しかしながら、今日では、近年調査されたデフェンターの教会の洗礼記録にもとづき、1643年12月10日に生まれたアダム・ラインケンの子ヤンが、後のヨハン・アダム・ラインケンとされるようになってきている。ラインケンのミドルネーム「アダム」は、アダムの子であることを示すオランダの故習にしたがって、後に付加されたものと推測される。

【略】

1681年9月30日、先妻と死別したラインケンは、3年3ヵ月後の1685年1月1日に、アンナ・ヴァーグナーと再婚する。ブクステフーデは、ラインケンの結婚を祝い、ラインケンのために声楽曲(BuxWV19)を書き贈っている。その一方で、世紀の移り変わりとともに、人々の音楽に対する嗜好にも変化が表れてくる。1705年には、聖カタリーナ教会当局が、ラインケンの後任としてヨハン・マッテゾンを採用しようとしたことが発覚し、ラインケンはこれを阻止する。マッテゾンは、その著作において少なからずラインケンに対する誤った否定的な見解を述べているが、1705年以来、マッテゾンとラインケンは対立関係にあったことを考慮すべきである。

ラインケンといえばJ.S.バッハに大きな影響を与えた音楽家の一人としてバッハ関係の書物では必ずといっていいほど言及される人物だ。試しに手許の本から引用してみよう。

バッハ キーワード事典

バッハ キーワード事典

バッハは若い頃にオルガンの大家J.A.ラインケン(1623-1722)やD.ブクステフーデ(1637-1707)の即興演奏を聞き、その伝統を受け継いだ。1720年にバッハがハンブルクのカタリーナ教会を訪れ、ラインケンの前でコラール「バビロンの川のほとりにて」に基づいて、さまざまな技法を駆使しつつオルガンで即興演奏を展開した際、ラインケンは「私はこの技法はもう死に絶えたと思っていましたが、今それがあなたの中に生きているのを目のあたりにしました」と絶賛したと伝えられている。*2

この『バッハ キーワード事典』は奥付によれば2012年1月20日に初版が出た本なので、バッハ関連書の中でもかなり新しい部類に属するはずだが、そこでもやはりラインケンは1623年生まれとされている。バッハの即興演奏を聴いたときのラインケンの年齢が100歳近かったのか、それとも70歳代だったのかで、賛辞の重みが違ってくることになるのではないかと思うのだが……。それにしてもマッテゾン、私怨にまかせて出鱈目を書き散らして後世に誤解を広めるとは、太い根性だ。
だが、マッテゾンが「たまたまいろんなことを書き残しているために後世に名を残しただけのつまらない人物」だと評価するのは早計だ。彼は非常に大きな業績を遺しているのだから。

18世紀のマッテゾンの理論においてはじめて、人間の声を含むか否かというクリテリアが音楽を分類する最上位の基準となり、“Instrumental-Music”という語も今日定義されるような純粋器楽という意味で用いられるようになった。*3

音楽を大きく器楽と声楽に二大別するという分類法を確立したのは、なんとマッテゾンだった! じゃあ、マッテゾン以前はどうだったかといえば……ええと、かなり込み入った状況だったようなので、うまく説明できない。関心のある方はぜひ『ドイツ・バロック器楽論』をお読みください。
この本の索引をみると、マッテゾンに言及しているページが他の誰よりも多く、この時代の音楽理論について語るときのマッテゾンの偉大さがよくわかる。しかし、中にはこんな言及もある。

ただ、マッテゾンは“Purcel”をフランス人と記すなど(略)、彼のイギリス音楽に関する知識にはややあやしいものがある。*4

……お粗末でした。

*1:ヘンデル』15ページ。

*2:『バッハ キーワード事典』311ページ。

*3:『ドイツ・バロック器楽論』53ページから54ページ。

*4:『ドイツ・バロック器楽論』160ページ脚註。