何を書いているかが理解できない
支倉凍砂の小説を久しぶりに読んだ気がする。
いや、気がするだけでなく、実際に久しぶりだ。
『狼と香辛料』の最後のほうは買うだけ買って積んであるし、『マグダラで眠れ』も買うだけ買って積んである。
- 作者: 支倉凍砂,鍋島テツヒロ
- 出版社/メーカー: アスキーメディアワークス
- 発売日: 2012/07/10
- メディア: 文庫
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閑話休題。
ライトノベルを読まなくなったので、ライトノベルに関する情報も収集しなくなった。Twitterを通じて断片的に情報が入ってくるので、支倉凍砂の新作が期間限定で公開されているという話はなんとなく知っていたのだが、うかうかしている間に公開期間が終了してしまっているものだと思っていたのだが、さっきふと思い出してアクセスしてみたら、まだ公開していた。
で、一読した。
……何を書いているのかが理解できない。
いや、日本語の文章として意味がわからないというわけではない。てにをはレベルで間違いがあるわけではない。また、馴染みのない言葉が使われていて意味がわからないということもない。まあ、普通の文章だ。
理解できないのは、その文章で述べられている議論*1だ。
「ある夫婦に双子の子供がいて、片方が女の子だとわかっている場合、残りの一人が女の子である可能性は?」
【略】
「2分の1じゃないの?」
「3分の1」
【略】
「これは、起こりうる事象がすべて把握できているから、そういう認識の齟齬が生じる。双子の組み合わせを考えれば、男・男、男・女、女・男、女・女の4通りでしょう? そのうち片方が女なら、もう一人が女である可能性は、女・女の組み合わせしかない。だから、3分の1」
これはまあ、何を言っているのか理解できる。間違ってるけど*2。
問題は次の箇所だ。
もし、その女の子の名前がものすごく珍しい名前だとしたらどうなるか」
【略】
「たとえば、北海道ちゃん」
【略】
「その北海道ちゃんは、1000万人に1人の名前とする」
【略】
「すると、夫婦の双子の片方のうち、名前が北海道ちゃんの女の子であるとわかっていると、もう片方の子が男の子であるか女の子であるかの確率が変わってくる」
【略】
「1000万人に1人という珍しい名前であるという情報は、非常に貴重な価値を持つ。つまり、夫婦の双子の片方の名前が北海道ちゃんであると知らないことについてはなんの価値もないけれど、知っていることについてはとてもすごい価値がある。なぜなら、さっき言った双子の組み合わせ、男・男、男・女、女・男、女・女の組み合わせが、男・男、男・女、男・北海道ちゃん、女・男、北海道ちゃん・男、女・女、北海道ちゃん・女、女・北海道ちゃん、北海道ちゃん・北海道ちゃんになるからね。ただ、北海道ちゃんが同時に2人になるのは……現実的にも、理論としても無視していい低い可能性だから除外する」
【略】
「さて、片方が北海道ちゃんとわかっているなら、もう片方の子が女である確率は、ありうる事象を数えてみればいい。それは、この表から、2つ。でも、片方が北海道ちゃんである組み合わせは、4つだから、4つ中の2つということで、2分の1。北海道ちゃんという名前がわかっているかどうかで、もう片方が女の子であるかどうかの可能性が高まるというわけ」
【略】
「さっきの北海道ちゃんの話に戻すと」
【略】
「北海道ちゃんという名前はとても珍しいから、もしも付けるのだとしたら女の子が2人いる家のほうが可能性が高い、ということを示しているの。もっと言うと、女の子1000万人に名前を付けなきゃならないとなったら、北海道ちゃんって名前も出てくるよねって話の逆視点なのよ」
……わ、わからん!
この小説の設定とストーリーから考えれば、この人物は「難しいが理屈は通っている議論を展開する理知的な人」であるはずで「意味不明の戯言*3を垂れ流す可哀想な人」のわけはないのだが、何度読み返しても意味不明の戯言にしか思われない。
「北海道ちゃん」という名前が1000万人に1人しかいないという前提条件には既に確率が含まれている。明示はされていないが、文脈から考えれば「北海道ちゃん」は女の子の名前で、男の子にはいないのだろう。そうすると、双子の組み合わせは次のとおりになる。
- 男・男
- 男・女(北海道ちゃんではない)
- 男・女(北海道ちゃん)
- 女(北海道ちゃんではない)・男
- 女(北海道ちゃん)・男
- 女(北海道ちゃんではない)・女(北海道ちゃんではない)
- 女(北海道ちゃん)・女(北海道ちゃんではない)
- 女(北海道ちゃんではない)・女(北海道ちゃん)
- 女(北海道ちゃん)・女(北海道ちゃん)
このうち9を「実的にも、理論としても無視していい低い可能性だから除外する」と言っているのだが、その判断にも「北海道ちゃん」という名前の確率が前提とされている。にもかかわらず、残る8つの可能性については「北海道ちゃん」が1000万人に1人しかいないという前提条件が全く反映されていない。
なぜ?
たとえば2と3を比べてみるだけでも9999999:1という激しい格差があることは見て取れるのに、なんでどちらも等しく取り扱うことができるのか? この理屈が全くわからない。
さらによくわからないのが、「女の子1000万人に名前を付けなきゃならないとなったら、北海道ちゃんって名前も出てくる」というくだりだ。そりゃそうかもしれないが、夫婦が子供に名前をつけるときにはたかだか数人だから、それこそ無視していい話なのでは? 無視していいほどの確率でもあえて拾い上げるというなら、双子の両親がほかに何人の子供に名前を付けているのかということも考慮しないといけなくなり、答えが出せなくなる。
考えれば考えるほど頭が混乱してくる。
いったい作者は何者なのか?
支倉凍砂だ!
あ、そうか。そういえば『狼と香辛料』を読んでいても、ところどころロジックが読み取れないところがあったからなぁ。
……というわけで書いていることの意味は理解できないまま、なんとなく納得はできたのだが、この『キタイのアタイ』を読んだのがきっかけである人物のことを思い出した。
その人物は、昔、ネットで知り合った人なのだが、確率に対して妙な認識を抱いていて、今はもう閉鎖されてしまった、その人の日記の冒頭には次のようなフレーズが掲げられていた。
サイコロを一度しか降れなければ
一の目が出る確率は
その目がでるか出ないかの二分の一である
たくさんの回数を降れてこそ
さいころのそれぞれの出る目は六分の一なのである
だとするならば
どうして人はこれほどまでにたくさんの可能性を未来に見るのであろうか
人はある瞬間を一度しか生きられない
ある場面である判断を下せるのは人生においてただ一度である
人生は様々なサイコロをただ一度だけ降る行為を繰り返すことの積み重ねである
だとするならば
そこに可能性を見ることなど馬鹿げた事なのだ
無限の可能性などない
この世に迷う事などない
あなたはただ
出来る事を力の限りにすれば良いのである
本人は何か詩的なことを書いたつもりだったのだろうが、最初の5行を読んだだけで目を白黒させてしまう代物だった。このフレーズを巡ってちょっとした論戦があったのだが、今となっては記憶している人も少ないだろう。古きよきテキストサイト全盛期の1エピソードに過ぎない。ああ、時代は変わった。