『オーブランの少女』を読む

オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)

オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)

2010年の第7回ミステリーズ!新人賞は当たり年で、受賞作「強欲な羊」(美輪和音)のほか、2篇の佳作入選作があった。そのうちの1篇*1が深緑野分の「オーブランの少女」だ。この作品は同年12月の『ミステリーズ!vol.44』に掲載された後、『ベスト本格ミステリ2011』にも収録されている。
「オーブランの少女」に続く深緑野分の第二作「仮面」が発表されたのは、2012年6月の『ミステリーズ! vol.53』なので、「オーブランの少女」から1年半後のこととなる。そして、さらに1年半を経て、「オーブランの少女」「仮面」ほか3篇を含む初の作品集が刊行された。それが本書『オーブランの少女』だ。
世の中の事柄にはなんでも「上には上」があるもので、深緑野分以上の寡作家・遅筆家もいないわけではない*2が、デビューから初の単著が出るまで約3年というのは、やはり少し遅めではないかと思う。
長らく待たされた*3、という思いが強い。以下、『オーブランの少女』収録作のそれぞれについて感想を述べるが、デビュー時からずっと待ち続けていたという事情により何らかのバイアスがかかっている*4可能性があることを予めお断りしておく。

オーブランの少女

デビュー作にして、当然のごとく表題作となった傑作。
冒頭の数行を読んだだけでこの小説が雰囲気づくりを重視していることがわかるため、謎や意外性といったミステリ固有の面白さは稀薄ではないかと予想しつつ読み進めたのだが、中盤以降になると、その予想が全く的外れであったことがわかり、大いに驚嘆した。初読時に受けた鮮烈な印象は忘れがたく、久しぶりに再読してみて感銘が再び蘇った。
ミステリーズ!新人賞」の選評*5を読むと、改善の余地がある作品というような評価がみられ、プロの作家の鑑賞眼の厳しさが窺われるが、素人目には逆に「完璧さ」を感じさせる作品だった。構成、描写、人物、そして謎が渾然一体となった完璧な一作だと。ただし、このような作品は一人の作家が一生にそう何度も書けるものではないし、仮に書けたとしても多作してはいけない。二作目、三作目ともなれば読者の側にも身構えができているため、驚きは薄れ、作品そのものの絶対的な品質がどうであれ相対評価が下がってしまうだろうから。
さて、「このような作品」とはどのような作品のことなのか? まだ「オーブランの少女」の内容を紹介していなかった。実は今少し迷っている。この小説のストーリーをどこまで紹介していいものかと。
謎解きの興味を中心に据えたミステリの中には、謎を構成する要素とそれ以外の要素を分離しやすいものと分離しにくいものがある。前者は謎を構成する要素を伏せてストーリーを途中まで紹介することが可能であるし、逆に謎を構成する要素だけを抜き出して推理クイズの体裁にして紹介することも可能だ。しかし、「オーブランの少女」は明らかに後者に属する作品だ。版元の紹介文は絶妙なまとめ方で、未読の人の興を殺がないぎりぎりのラインを保っている。でも、できればこの紹介文も読まないほうがいい。全く白紙の状態のほうが、より一層「オーブランの少女」を楽しめるだろうことを、予備知識なしで読んだ経験者として保証する。
とはいえ、全く内容に触れないのもどうかと思うので困っているのだが、んー、「『エコール』*6と『監獄部屋』*7を足して2で割ったような作品」とでも言っておこうか。

仮面

19世紀末のロンドンを舞台に貧乏医者ウォルター・アトキンソンが二人の少女のために大活躍するお話。これを最初に読んだとき、Twitterで次のように呟いた。

残念ながらシリーズ化はならず、ノン・シリーズ短篇集のうちの1篇という形で収まったが、今読み返してみるとこれはこれでよかったのかもしれないという気もする。というのは、これをシリーズ化するとなると、資料調べにかかる作者の負担は相当のものになるだろうからだ。
書き忘れていたが、『オーブランの少女』に収録された5篇はすべて舞台となる時代や国が異なっている。その中で、最も現実の風俗に忠実に、緻密な舞台設定で書かれているのが「仮面」だ。
19世紀末ロンドンといえば、シャーロック・ホームズが活躍した場でもあり、近年では『エマ』ブームも後押しして、日本でも当時の生活史に関する文献が数多く出版されている。その分、読者の側にも知識がついているので、あまり適当なことを書くとよく知った人から厳しい批判に晒されることになる。そのような重箱の隅をほじくるような批判であっても、時にはミステリとしての仕掛けに致命的な打撃を与えることがある*8ので、作者は慎重にならざるを得ない。『オーブランの少女』の巻末に掲げられた参考文献のうち半数以上が「仮面」関係のものであるのは、このような事情によるものなのだろう。この調子で単行本1冊分の連作を書き上げるには、あと数年を要したかもしれない。『アトキンソン医師の事件簿』でなくてよかった!
さて、「仮面」はデビュー作「オーブランの少女」とは全く異なる趣向の作品だ。「2人の少女が苦境の中で知恵を絞って理不尽な大人と対決する」というような要約をしてしまえば前作と似ているといえなくもないが、読者の読み筋を誘導するテクニックがまるで違っている。今回、「オーブランの少女」と「仮面」を続けて読んでみて、改めてそのことを実感した。
この小説には人前では決して仮面を外さないルクレツィアという占い師が登場する。一見すると、それがタイトルの由来になっているのだが、このルクレツィアは主役ではないし、その仮面の裏が謎の焦点であるわけでもない。だとすれば、わざわざ「仮面」というタイトルにしたのは何か別の意味があるのだろう。「仮面」といえば、人間の二面性を暗示する比喩としてよく用いられる。では、誰が、どのような「仮面」をかぶっているのか……というふうに考えながら読者はこの小説を読み進めることになる*9。このような誘導は「オーブランの少女」にはみられなかったものだ。どちらかといえば地味な「仮面」だが、小技を組み合わせて大きな罠を構成する筆致は確かで、「オーブランの少女」と比べても見劣りするものではない。

大雨とトマト

この後の3作は単行本書き下ろしであるため、いずれも今回が初読となる。
「オーブランの少女」「仮面」の2作はどちらも50ページ強なので、中編未満の「少し長めの短篇」という程度だが、内容面で重量級の大作という風格を漂わせているのに対し、「大雨とトマト」は箸休めの掌篇という感じがする。20ページ弱の分量があるので、文字通りの「掌篇」、すなわちショートショートではないが、よく出来たショートショートにみられるような明確なオチが特徴となっている。
他の作品とは異なり、エキゾチズムもノスタルジーも一切含まず、素材とその調理法のみで勝負している。こういう作品も書けるのか、と感心した。

片想い

これもさほど長くはないが、ストーリーの構成は全くショートショート的ではなく、「大雨とトマト」とは全然違っている。昭和初期の東京を舞台として、高等女学院生の少女たちの日常から謎を紡ぎ出している。伏線が丁寧に張られているので、真相を見抜くのはさほど難しくはないが、「片想い」の眼目はそこにあるのではない。
ヒロイン、語り手、そして作中には登場しない不在の少女の淡くふたしかな三角関係を巧みに描いている。少しバランスを間違えると生臭くなるし、逆に空々しく小綺麗になる可能性もあるところだが、うまくまとめていて危なげがない。

氷の皇国

やや軽量級の「大雨とトマト」「片想い」の後にトリを飾る「氷の皇国」は90ページもあり、『オーブランの少女』収録作の中で最長のものとなっている。
北の大陸の小さな漁村に上流から流れついた一体の首無し死体。それは数十年前に滅んだユヌースクという国で処刑された人物だった。長い時間をかけて氷河から姿を現したこの死体の由来について、吟遊詩人がマンドリンを爪弾きながら語り始める……。
おそらくは北欧をモデルにしていると思われるが、歴史上、ユヌースクなどという国が実在したことはない。また、ヨーロッパの吟遊詩人が活躍したのは主に中世なので、近代の産物であるマンドリンを弾く吟遊詩人などたぶんいなかっただろう。この世界には大砲も鉄砲もあり、ジャガイモも栽培されているので、大航海時代以降だと考えられるが、架空の世界のお話だとすれば、あまり時代背景を詮索するのも野暮というものだろう。
「オーブランの少女」が、古い手記をもとに再構成された物語という体裁をとっているのに対して、「氷の皇国」は吟遊詩人が村人たちに語って聞かせた物語となっている。ともに枠構造をもつのは恐らく偶然ではあるまい。両作は対になっている。
というわけで、先ほど「オーブランの少女」の感想のなかで、やや強引に「監獄部屋」を引き合いに出したところなので、その一節を引いてみることにしよう。

此世界では斯る男性的な、率直な方法が、何の障碍も無く行われるので詐欺、放火、毒殺などの女性的な、迂曲い方法は流行らぬ、此世界では良心や温情は罪悪である、正義や涙は篦棒である。腕力、脅威が道徳で、隠忍、狡滑が法律である。殺人、傷害、凌辱、洞喝が尋常茶飯事で、何の理由も無く平気で行われ、平気で始末される、淫売窟に性道徳が発達しない如く、斯る殺人公認の世界には探偵小説が生じ得ない。

ユヌースクの最後の皇帝は残忍かつ冷徹で、多くの人の首を刎ねた。「斯る殺人公認の世界には探偵小説が生じ得ない」。しかし、「氷の皇国」は、殺人公認の世界で起こったひとつの殺人の顛末を描いている。いわば、「探偵小説が生じ得ない世界の探偵小説」となっている。ろくな推理も検証もなく、問答無用で処刑される世界で、いかにして「名探偵みなを集めてさてと言い」を可能とするのか、という点に「氷の皇国」の工夫が見てとれる。
余談だが、「探偵小説が生じ得ない世界の探偵小説」といえば、奇しくも先月、同じレーベルから刊行されたばかりの『リバーサイド・チルドレン』もそうだった。扱い方が全然別なので同列に比較して論じることはできないが、あわせて読むと興味深いので、未読の方は是非こちらも読んでいただきたい。
脱線ついでにもうひとつ。
氷河から昔の死体が出てくる、というシチュエーションで有名な話がある。もしかしたら、「氷の皇国」のヒントになったかもしれない*10その話、実話なのかフィクションなのか、フィクションだとすれば作者は誰なのか、全く覚えていないのだが、大昔に『ミステリ百科事典 (現代教養文庫 1041)』で読んだことだけは覚えている。当該箇所を引用しよう*11

氷の中の美女、といえば、昔アルプスの氷河の亀裂に陥ち込んで氷に閉ざされたまま行方不明になった美少女(だったか、普通の少年だったか)の屍体が、数年後氷河の川下から発掘されたが、それは死んだ時のまま、全然年をとっていなかった(のは当然だが)ので、その前の事件以来すっかり年をとった恋人(だったか両親だったか)が、涙を流してかき抱いた、という有名な実話(だったか伝説だったか)は、その美しい悲劇を生む原因となったエーデルヴァイス(ミヤマウスユキ草)の名と共に、誰でもが知っている話である。
この話からヒントを得て、アルプスならぬヒマラヤ山中の氷河の中に埋もれた美女の物語『氷河の人魚』をかいた渡辺啓助氏にこの話の精確なデーターをお尋ねしたが、氏もあまりにも有名な話なので、ただ漠然と記憶しているだけだ、とのこと。読者の中で、どなたかこれに関する文献を御存じの方はおられないだろうか。

……氷漬けの死体の性別すら定かではない。
では、「氷の皇国」の首無し死体は誰だったかといえば、そんなことはもちろんここに書くわけにいかないので、ご自身でお確かめくださいとしか言いようがない。
全然まとまっていないが、一通り『オーブランの少女』収録作全部の感想を述べたので、これでおしまいにしたい。
最後に一言だけ。
次作はできれば来年中くらいには読みたいものです。

*1:もう1篇は「商人の空誓文」(明神しじま)。

*2:たとえば、佳作同時入選の明神しじまの第二作「あれはこどものための歌」は「仮面」からちょうど1年後の2013年6月の『ミステリーズ! vol.59』に掲載された。

*3:「待たされた」というのは読者の勝手な言いぐさであり、別に作者と読者の間に契約があるわけでもないので、単に「待った」と言うのが適切であることは言うまでもない。

*4:そのバイアスが上方バイアスか下方バイアスかの判断はお任せする。

*5:この回の審査員は、辻真先貫井徳郎桜庭一樹の三氏だった。

*6:これは桜庭一樹の選評でも触れられていた。確か作者自身もどこかで『エコール』から影響を受けたと語っていたはず……と思って調べてみると、ここだった。

*7:これは思いつきで何となく言ってみただけ。たぶん、他に同じようなことを言っている人はいないだろうし、作者が影響を受けているとも考えにくい。「監獄部屋」は青空文庫に入っているので、興味のある方は読み比べてみてください。

*8:時代考証の誤りは一般の歴史小説や時代小説でも批判を受けるが、ミステリの場合には別の意味を持つことがある。この点については、以前、ここで少し述べたことがある。本当は具体例で示すのがいちばんなのだが、必然的にネタばらしを伴うことになるため、曖昧な書き方ですみません。

*9:もちろん、必ずしもすべての読者がそのような読みをするとは限らない。

*10:が、別に関係ないのかもしれない。

*11:ただし、本棚を引っかき回しても現代教養文庫版が見あたらなかったので、『ミステリ百科事典 (文春文庫)』による。同書pp.269-270から。