「視点と叙述」への新しい光

小説新潮 2014年 05月号 [雑誌]

小説新潮 2014年 05月号 [雑誌]

連休も最終日となったので、積ん読状態だった「小説新潮」5月号を開いた。お目当ては深緑野分の「アントン先生と明るい目撃者」だ。
深緑野分は2010年に東京創元社の第7回ミステリーズ!新人賞で佳作となった「オーブランの少女」でデビューした。寡作家であり、デビュー作を表題作とする作品集『オーブランの少女*1が刊行されたのは2013年秋のことだった。この作品集は5篇の中短篇から成っており、時代も国も違えば作品の長さもまちまちでありながら唯一「少女」をテーマに据えていたので、当然その路線で作家としての地歩を固めていくのだろうと思っていたら、続く「カントリー・ロード*2では、少女が1人も登場しないどころか、「少女たちの儚くも甘やかな嘆美の世界に浸りたいな〜」などと考える読者を絶望のどん底にたたき落とすようなテーマを扱っている。わはは。
こういう「読者への裏切り」は大好きなので、次はどんな手で仕掛けてくるのだろうかと楽しみにしていたところに発表されたのが「アントン先生と明るい目撃者」だった。これも少女は登場しない*3が、「カントリー・ロード」を先に読んでいるなら、それはもう意外ではない。意外だったのは、この小説全体の趣向だ。
もし佐野洋が「アントン先生と目撃者」を読んだなら、大喜びで「推理日記」のネタに使っただろう。ああ、あと1年長生きすればよかったのに! 佐野洋が終生関心を抱きつづけだ、ミステリにおける「視点と叙述」の問題に、これは新しい光を投げかけているのだから。
「アントン先生と明るい目撃者」の趣向は一言で述べることができる。この小説に附された「著者コメント」にも明示されているので、ここで伏せる意味はほとんどないだろう。だが、小説そのものに目を向けると、冒頭から8番目の段落で明かされる趣向であるとはいえ、その前の7段落を予断抜きで読むのとそうでないのとでは、やはり若干の違いがあるのではないか? こんなことを言ってしまうとそもそもミステリの粗筋紹介などできなくなってしまうのだが、別に感想文は文庫解説ではないのだから粗筋紹介など不要だ*4。また、この小説には4つの小見出しがあるのだが、冒頭のそれだけが他の3つとは異なり、この小説の趣向を明示するのではなく暗示するものとなっている。これも、未読の人に対して、この小説の趣向を伏せておく根拠となるのではないだろうか?
小見出しに言及したついでに、もう少し。冒頭以外の3つの小見出しが同じスタイルをとっているのに対して、冒頭のそれだけが異なっている。これは全体の統一感や様式美を多少損なうことになるだろう。冒頭8段落めのちょっとした驚きのために小見出しのスタイルを犠牲にしているわけだが、末尾の一行が冒頭の小見出しと呼応していることで埋め合わせされている。数学的構成美フェチにも満足できる仕上がりだ。多くの読者はこのような本筋と直接関係のない点については気にしないだろうが、それでも手を抜かずに一字一句に気配りをして丁寧に仕上げていることに感心する。
この小説の趣向に触れずに感想を述べるとすると、どうしても「面白かった」というような月並みな言葉しか出てこない。どこがどう面白かったのかを説明しないと話にならないのだが、たとえば、「視点が××××××だから××になると語り手の意識がなくなるという設定が、そこで起こっている出来事を読者に直ちに知らせない理由ともなっているのが面白い」とか「最終的には読者に真相をすべてを明かすことになるが、そのために××になっても意識が途切れない語り手を用意しているのが面白い」とか、どうやっても小説のプロットの面白さと趣向の面白さをセットで語ることになり、伏せ字だらけになってしまう。
それにしても、ミステリというのはなんと奥が深く間口の広い文芸ジャンルなのか、と思う。「アントン先生と明るい目撃者」のような趣向をミステリ以外のジャンル小説ないし非ジャンル小説で試みるとすれば、どうしても前衛文学っぽくなってしまう。それはそれで結構なのだが、前衛文学は一般にはとっつきにくく親しめないものとされている。ところが、ミステリの枠内でそれを行うと、ブロットと趣向が有機的な結合を果たし、実験的でありながら大衆性も失わない*5
話を広げすぎた。
「アントン先生と明るい目撃者」を読んで、一つ不審に思ったことがある。この小説で「目撃者」とは同時に語り手でもあるのだが、一人称複数視点を採用しているのだからタイトルは「アントン先生と明るい目撃者たち」となるべきではないか、と。『リリアンと悪党ども』とか『ひげのある男たち』とか『陽気な容疑者たち』などの愉快でしゃれたミステリのタイトルがいくつも思い浮かぶ。日本語は単複同形だから、複数の目撃者のことを「目撃者」とだけ表しても、もちろん間違いではないのだが……。
そこで、はっと気がついた。もしかすると、このタイトルは次作への伏線なのではないだろうか?
前述のとおり、深緑野分はこれまでシリーズ物を全く発表していない。一作ごとに作風を変え、新たな驚きを読者に与えることを半ば使命のように考えているのではないかと推測する*6のだが、もしこの推測が正しいとすれば、深緑野分がシリーズ物を書くとすれば、「シリーズ物であること」を逆手にとった仕掛けを施すのではないか、と思われる。
たとえば「アントン先生とお堅い目撃者」というタイトルで新作が発表されたとしてみよう。「アントン先生と明るい目撃者」を読んだ人なら、「ああ、今度は複数の○○が語り手になる話なんだな」というふうに予断を抱くだろう。だがそうではなく、目撃者はたった1人で、アントン先生のほうが複数だった、という趣向にすれば、きっと誰もが驚くことだろう。そして、彼もしくは彼女は膝を叩くのだ。「ああ、小説新潮2014年5月号139ページ下段12行目はこのための伏線だったのかっ!」と。
……というような妄想を掻き立てられる、楽しい小説でした。

*1:この本については『オーブランの少女』を読む - 一本足の蛸という感想文を書いているので、興味のある人は参照されたい。ただし、いつものことだが、あまりまともな感想文ではないので、『オーブランの少女』そのものの読解にはまるで役に立たないことを保証する。

*2:ミステリーズ! vol.63」に掲載。現段階では単行本未収録。これも感想文を書いたつもりでいたが、日記内を検索しても見つからなかった。たぶん、Twitterで書き飛ばしたのだろう。

*3:この小説に出てくるキャロルという女性は、これまでの深緑作品の少女に似ていると言えるかもしれないが。

*4:こう書くと、文庫解説には粗筋紹介は必須だ、と主張しているように思われるかもしれない。個人的には、文庫解説にも粗筋紹介はいらないのではないかと思っているのだが、一般に文庫解説には粗筋紹介があることを思えば、世間のニーズに応えているのだろう。特にこの点で争うつもりはない。

*5:もちろん、誰が書いてもそうなるというわけではない。ミステリの勘所を押さえずに表面上のガジェットだけを模して前衛文学に組み込んだとしても、うまくはいかないだろう。

*6:特に証拠はないが、いちいち舞台やキャラクターを構築する手間を考えると、何らかの使命感なしではやっていられないのではないか、と。