リンゴとニンニクが置換される世界ではいったい何が起こるのか?

先日、焼肉屋に行ったときのこと。タレに入れるすりおろしニンニクを見て「これって、すりおろしリンゴに似てるなぁ」と思った。この連想はごく自然なことだと思う。リンゴにはニンニクの消臭作用があるとされるし、どちらも青森県の特産品だ。ニンニクを見ればリンゴを想い、リンゴを見ればニンニクを偲ぶ。何も不自然なところはない。
ただ、ここから次のように考えを進めるのは、さほど自然な思考過程ではないかもしれない。「ニンニクをすりおろしたら、その瞬間にすりおろしリンゴに置換され、逆にリンゴをすりおろしたらすりおろしニンニクに置換される世界があるとすれば、その世界はわれわれの世界とはどのように違ったありさまを示すことになるだろうか」と。
正直どうでもいい思考実験だが、もともと思考実験などというのはどうでもいい事なので気にしても仕方がない。
この思考実験を進めるにあたって一つの前提を置くことにしよう。それは、この架空の世界ではリンゴまたはニンニクをすりおろしたときに生じる現象以外は現実世界とほぼ同様だという前提だ。当たり前のことだが、すりおろしリンゴとすりおろしニンニクの置換以外に「パンダの尻尾の色が黒である」とか「警視庁から大阪府警への人事異動が定期的に行われている」とか「一酸化炭素からドライアイスが作られる」とか「EM菌をプールに投入すると水がきれいになる」とか「武雄市空き家等の適正管理に関する条例第12条の規定が民法第606条第1項に優先する」とか、そのような仮定を積み重ねていけば、ほとんどなんでもありになってしまい、思考実験が成立しない。
さて、ニンニクをすりおろしたらすりおろしリンゴになり、リンゴをすりおろしたらすりおろしニンニクになるとすれば、焼肉のたれはいったいどうなるだろうか? もともと焼肉のたれにはリンゴとニンニクが両方とも入っているものが多いのではないかと思うが、もしそうだとすれば、この置換現象があってもなくても大きな違いはないだろう。しかし、焼肉屋で客席の卓上に備え付けてあるニンニクのすりおろしは、ニンニクではなくリンゴによって作られたものになるだろう。同様に、ラーメン屋でもリンゴをすりおろしたすりおろしニンニクを用いることになるだろう。
ここでふと疑問。いま「すりおろしニンニク」という表現を独特の臭気と旨味のある例のアレを指示する表現として用いているのだが、これは果たして正当なことだろうか? 「すりおろしニンニク」はあくまでもニンニクをすりおろしたものであって、それが甘みと酸味を備え、かつニンニクの臭気を消す作用を持っていたとしても、「すりおろしリンゴ」ではないのではないだろうか? これはなかなかやっかいな問題だ。いま想定している架空の世界においてニンニクをすりおろして得られる、現実世界ですりおろしリンゴがもっているのと同じ特性をもつ「それ」を表現するのに適切なのは「すりおろしニンニク」か「すりおろしリンゴ」か?
おそらく、当該架空世界の住民であるなら、リンゴをすりおろしたものは「すりおろしリンゴ」、ニンニクをすりおろしたものは「すりおろしニンニク」と呼ぶだろう。現実世界でリンゴをすりおろしたときにしばらく経つと変色するのが当たり前であり誰も不思議に思わず、ことさら「すりおろしリンゴ」以外の名称を必要としていないのと同様に、当該架空世界ではリンゴをすりおろした瞬間にどれほど元のリンゴとは違った味に変化するとしてもそれは当然のことと受け止められているのだから。「すりおろしリンゴの味やにおいは、すりおろす前のニンニクの味やにおいに極めてよく似ている」という認識があったとしても、それを「すりおろしニンニク」とは呼ばないはずだ。
とはいえ、この思考実験は現実世界から架空の世界に向けて行われているものであり、それに用いられる言語表現も基本的には現実世界の用法に従うことになる。言及先の架空世界での用語法はなんら参考にはならない。現実世界にはすりおろした瞬間に味やにおいが変わるリンゴやニンニクは存在しないので、この思考実験のために造語するのがいちばんかもしれないが、なじみのないことばは理解への負担となる。「出自はリンゴだが、特性はニンニク」というペースト状のものを表す表現として直感的に受け入れやすいのは「すりおろしリンゴ」か「すりおろしニンニク」か?
こんなことを考えているうちに、おおもとの問題設定よりもこちらのほうが興味深い問題ではないかと思われてきた。
正直どうでもいい。どうでもいいことではあるのだが、およそ人生というものはどうでもいいものだから、この問題だけが例外というわけでもないだろう。しかし、それにしても、あまりにもどうでもいいことで、だんだん考えるのが面倒になってきた。
たかがリンゴ、たかがニンニクのことではないか。青森県民にとっては一大事でも、一消費者として真剣に取り組む必要は全くない。
ああ時間が無駄だ。ばかばかしい。これでおしまいにしよう。
ここまで読んでくれた人には申し訳ないが、今日の話には特に何の教訓も寓意もありません。