今のところ、遺伝子組み換えの双子素数はない

「今のところ、遺伝子組換えの食塩はない」をおかしいと理解するための前提は案外高い - 発声練習を読んで、「今のところ、遺伝子組み換えの食塩はない」という言い回しについて考えてみた。ついでに「組み換え」と「組換え」のどちらが適切なのか、ということについても考えてみたかったのだが、同時に2つのことを考えると頭の中がごちゃごちゃになってしまい、その結果、文章のなかみもごちゃごちゃになってしまうので、そっちのほうはやめておくことにした。
まず最初に言っておきたいのは、「今のところ、遺伝子組み換えの食塩はない」の「おかしさ」は「可笑しさ」であるということだ。
元記事をよく見ると、「文春製菓株式会社」という架空の製菓会社の製品に含まれる成分についてのコメントというスタイルをとっている。そこに掲げる原材料名にはある程度の自由度があるわけで、遺伝子組み換え作物由来の食塩があるかどうかについての知識がなければ、わざわざ食塩を挙げる必要はない。食塩を全く含まない菓子は少ないと思うが、架空の菓子の原材料に食塩の記載がないからといってことさら目くじらを立てる読者はあまりいないだろう。
記者は、遺伝子組み換え作物由来の食塩などないことを知ったうえで、あえて食塩に言及し、明らかにジョークのつもりで「今のところ」と書いているのだ。
同じ記事で、膨張剤については「菓子やパンを膨らませる食品添加物だが、遺伝子組み換え作物は使われていない」と素直な書き方をしている。膨張剤の成分や製法は食塩に比べると広く知られているとは言いがたいので、「今のところ、遺伝子組み換えの膨張剤はない」と書いてもジョークだと気づかない人が多いだろう。そこで、食塩のほうだけ「今のところ」をつけたのではないだろうか。単に字数の都合かもしれないが。
ともあれ、「今のところ、遺伝子組み換えの食塩はない」は、原文のコンテクストではジョークであるということを無視して話をすると、ユーモア感覚のない朴念仁と思われかねないので、「それくらいのことは一応わかった上で書いていますよ」と言い訳をしたうえで次に進む。
コンテクストから切り離して「今のところ、遺伝子組み換えの食塩はない」という言い回しを検討してみよう。ここには何かしら奇妙なところがある。それは次の2点に起因する。

  • 遺伝子組み換えは生物について行われる操作なので、「遺伝子組み換えの○○」の「○○」には生物の種類を表す表現が入るはずであるのに、食塩はそうではない。
  • 「今のところ」という表現には「過去や未来については保証の限りではない」という含みがあるので、将来的には食塩が遺伝子組み換えによって製造されるかもしれないと仄めかしているが、その公算は限りなくゼロに近い。

前者については、「遺伝子組み換えの○○」を「遺伝子組み換えを行なった生物由来の○○」の省略表現だと解釈すれば、おかしさは解消する。素晴らしきPrinciple of Charity! ところで、「おこなった」は「行った」と表記すべきか「行なった」と表記すべきか、というのも興味深い論点だが、一度に多くのことを考えると頭がごちゃごちゃになるのでやめておこう。
さて、「遺伝子組み換えの○○」の例を次に3つ挙げてみよう。

  1. 遺伝子組み換えの稲
  2. 遺伝子組み換えの米
  3. 遺伝子組み換えの飯

このうち、どれがまともな表現で、どれがおかしい(=奇妙な)表現だろうか?
あるいは次の例ではどうか?

  1. 遺伝子組み換えの小麦
  2. 遺伝子組み換えの小麦粉
  3. 遺伝子組み換えのパン

これらの例について考えてみることで、もしかしたら生物と食品についての概念的理解の構造について何らかの知見が得られるかもしれないが、もしかしたら何も得られないかもしれない。最近とみに思考力が落ちているので、ここでは深く考えずに先に進むことにしたい。
先ほど、「今のところ、遺伝子組み換えの食塩はない」という表現が奇妙であるのは2つの理由があることを示した。その後者について考えてみよう。
「今のところ」という言い回しは文字通りにとれば、単に現在の事柄について述べているということを強調する意味があるだけだ。従って、現在形の平叙文の前に「今のところ」をつけても、文の真偽は変わらない。「日本の首都は東京である」に「今のところ」をつけて「今のところ、日本の首都は東京である」と言っても、もともと真であった文が偽になることはない。もしかすると、明治維新後に正式な遷都手続きが行われていないので今でも日本の首都は京都のままだと信じている人がいるかもしれないが、そのような人であれば「もともと偽であった文が真になることはない」と読み替えていただきたい。
「今のところ」のもつ機能がもし現在を強調するだけのものであれば、「遺伝子組み換えの食塩はない」に「今のところ」を加えても何もおかしくはないということになるだろう。だが、そうではない。先に述べたとおり、「今のところ」には、「過去または未来については保証の限りではない」という含みがある。遺伝子組み換え技術は比較的最近のものなので、過去は無視することにすれば、「今のところ、遺伝子組み換えの○○はない」は「将来、遺伝子組み換えの○○が作られるかもしれない」と仄めかすことになるだろう。
この仄めかしは文の真偽を左右するものではない。「遺伝子組み換えのニホンウナギはない」が真であるとすれば、「今のところ、遺伝子組み換えのニホンウナギはない」も真であり、仮に遺伝子組み換え技術が応用される前にニホンウナギが絶滅してしまっても、「今のところ、遺伝子組み換えのニホンウナギはない」が偽になるわけではない。とはいえ、ニホンウナギが近い将来に絶滅することが明らかになったときに、「今のところ、遺伝子組み換えのニホンウナギはない」と発言したなら、その文は偽ではなくとも極めて奇妙な発言だということになるだろう。
ニホンウナギのことを考えると切なくなる。昨年の「ウナギ不足」から一転、今年はウナギ稚魚漁獲量大幅増にとのことなので、明るい未来を期待しつつ、話を食塩に戻すことにしよう。
食塩の主成分は塩化ナトリウムであり、ニホンウナギとは異なり絶滅の恐れはない。だから、心おきなく食塩の将来について語ることができる。今のところ、食塩は遺伝子組み換え技術とは無塩、もとい無縁だが、もしかしたら将来は動植物から食塩を取り出して精製するのが一般的になり、その製塩法にとって都合がよいように遺伝子組み換えが行われるかもしれない。その公算は限りなくゼロに近いが、ゼロだとは言い切れない。5年前にタイムトリップして「将来、第2次安倍内閣が成立するかもしれない」と言えば、「可能性はないとは断言できないが、その公算は限りなくゼロに近い」と言われたかもしれない。タイムトリップのかわりにタイムスリップならどうだろうか? まあ、同じことだろう。
では、可能性が全くない例はないものか。そこで思いついたのが今日の見出しに掲げた例文だ。未来永劫、双子素数が遺伝子組み換え生物から作られることはないはずだ。これでこそ、正真正銘、大手を振って奇妙な表現だと主張できる。ただ、残念ながらこの表現は「今のところ」を除いて「遺伝子組み換えの双子素数はない」でも奇妙なので、おかしさの焦点がぼやけているようにも思われる。もうちょっとましな例がないものか。いろいろ考えてみたのだが、遺伝子組み換えの可能性がある一方で、将来遺伝子組み換えの可能性がないような事物が全く思いつかなかった。
なんだか、わけがわからなくなったので、今のところ、この文章はここでおしまい。なお、この文章は遺伝子組み換えではない。