「意識の流れ」と見取図

あまり時間がないので推敲なしで走り書き。
こんな文章を読んだ。

ここ数年、ライトノベルはほとんど読んでいないので『僕は友達が少ない』も名のみ聞く程度。当然、その内容について云々する資格はない。ここでは、「小説の中に挿入された見取図」に対する違和感について考えてみたい。なお、上のリンク先では「見取り図」という表記を用いているが、ここでは「見取図」を用いる。特に深い意図はありません。
さて、『僕は友達が少ない』は一人称の小説だそうだ。一人称の小説というのは簡単にいえばある人物の視点から見聞きしたことや、その人物の考えたことなどを「私は……を見た」とか「私は……と考えた」というふうに一人称で語っていく小説のことだ。もちろん「私」ではなく「僕」でも「俺」でもいい。『僕は友達が少ない』はタイトルからすれば「僕」が主語のようだが、地の文の主語は「俺」のようだ。また、視点人物は一人とは限らない。ライトノベルは場面ごとに、あるいは一場面のなかでも視点人物が変わることがある*1。視点人物が単数か複数かというのはここでは大きな論点にはならないと思うので、これ以上は深入りしない。
一人称小説の説明としては普通はこんなところだが、『僕は友達が少ない』の見取り図のなにが悪いのか - 転々し、酩酊では「日記体など」と「ふつうの一人称」に分けている。この区分はよく見過ごされるところだが、たとえば「語り手が犯人」というトリックを用いたミステリがフェアかアンフェアかを論じるときには重要だ*2。『僕は友達が少ない』は(たぶん)ミステリではないし、フェアプレイの問題が争点になることもない(はず)だが、『僕は友達が少ない』の見取り図のなにが悪いのか - 転々し、酩酊の主張においては「ふつうの一人称」であることが必要だ。はたして『僕は友達が少ない』は本当に「ふつうの一人称」なのか? 実はあたかも「ふつうの一人称」であるかのように偽装された「日記体など」ではないのか? ……というような詮索はやめておこう。
「ふつうの一人称」では、語り手本人が文章を書いているわけではない。たとえば語り手が利き腕を骨折していて文章が書けないという状況で、「私は痛みに耐えて手紙を書こうとした。だが、駄目だった。二、三文字書いただけで腕が猛烈に痛み、書き続けられないのだ」というような記述があったとしても何の不思議もない。その文章は作者が書いているのだから。しかし、「日記体など」では、後日の回想として書かれるのでなければ相当おかしな記述だということになるだろう。
『僕は友達が少ない』の見取り図のなにが悪いのか - 転々し、酩酊では、せっかく「日記体など」と「ふつうの一人称」の区別をしているのに、「ふつうの一人称」では語り手が文章を書いているのではないという重要なポイントに注意を払っていないように思われる。もしこの点に着目すれば、

《位置関係はこんな感じだ←》と矢印つきで小鷹が地の文で語っており、そして見取り図が貼りつけてある。ということは、小鷹はこの見取り図の存在を認識しており、なおかつ文中に挿入したということだ。

という議論の流れにならなかっただろう。作中の語り手本人が文章を書いているのではないのだから、文中に見取図を挿入するという作業だけ語り手に帰する必要もない。
とはいえ、語り手が見取図を認識することは最低限必要なのではないか? 語り手が認識していないことは書けないのが一人称小説の鉄則だ。これは「ふつうの一人称」か「日記体など」かには関わりない。*3なぜ皆は『僕は友達が少ない』の図に違和感を感じないのか/なぜ僕は違和感を感じるのか - 転々し、酩酊では語り手の認識、ないし思考に焦点を絞り、一人称小説のふたつの区分に依存しない議論を行ってる。

まず『僕は友達が少ない10』の例のページを読んでわかるとおり、小鷹は《位置関係はこんな感じだ←》と語っており、矢印の先には位置関係を示した図が挿入されている。

ということは小鷹はその図の存在を認識しているということだ。

ならばその図が小説内に挿入されるためには、(この文章を書いている)小鷹が文中に挿入するか、(作中の登場人物である)小鷹が作中で手に入れたり、自分で書いたりして、文中に挿入された図とまったく同じものを見ていなくてはならない。

これは一見妥当なように見える。しかし、よく読むと一か所変なところがある。それは「文中に挿入された図とまったく同じものを見ていなくてはならない」という箇所だ。どうして「まったく同じ」でなければならないのか? 「だいたい同じ」ではいけないのか? ここで「まったく同じ」と言われているのは、おそらく室内の人物の配置につての視覚情報と、それを抽象化した見取図を峻別するためだろう。作中の語り手は室内の人物の配置をじかに目で見ている。だが、見取図を見ているわけではない。なのに作中に見取図があるのはおかしい。こういうことだろう。
うーん、でもなあ……。
この後、議論がやや錯綜している感がある。たとえば、次の2つの箇所を読み比べていただきたい。

小説において語り手の想像というのは文章で表現されている。それ以外はありえない。

もし語り手の想像が文章以外で語られると、それはもはや小説ではない。

だからむしろ、一人称の語り手が見たものを見たまま小説に挿入するのは不自然なことではない。

いや、一人称の語り手が見たものを見たまま挿入していったら、それこそ小説でなくなってしまうのでは? 目にみえるものはすべて絵で表現し、それについて語り手が思考したことを絵のそばにキャプションのようにつけるというスタイルは小説というより絵物語というべきだろう。もちろんそれは極論であって、リンク先の筆者は視覚情報をすべて絵で描けと言っているわけではない。物事にはおのずと限度がある。なら、その限度内であれば語り手の想像の一部を文章以外の手段で表現しても別に構わないのでは?
一人称小説は語り手の外部の事柄であってもすべて語り手の意識というフィルターを通して語られる。だから、意識の中にあって自然なものは小説の中にあっても自然であるし、意識の中にあって不自然なものは小説の中にあると不自然だ、という考え方なのではないだろうか? それはそかもしれない。でも、少なくとも「ふつうの一人称」には*4語り手の意識の流れのほかにもう一つのフィルターがある。
たとえば作中の誰かが「今の私たちの席の並びを文章で表すとわかりづらいね。見取図なら一目でわかるけれど」と言ったとしよう。特に聞き間違いがなければ語り手はその発言をそのまま意識の中に受け入れる。そして、小説にはそのままの形で書かれる。いや、違う。発言は音声によってなされているから、そこには漢字は用いられていない。そして、語り手もふつうはいちいち漢字変換して意識したりはしない*5だろう。会話文の漢字変換*6は作者が行っているのだ。その際、「見取図」と書くか「見取り図」と書くかは任意であり、語り手の意識の中にある言語とまった同じものが「そのまま」小説に書かれているわけではない。
先ほど「もう一つのフィルター」と書いたのは、作者によるさまざまな修文のことを指している。細かくいえばさらに編集者や校正者というフィルターもあるが、当面の話題では一括して「作者など」と言ってしまっていいだろう。語り手のあずかり知らぬところで、語り手の思考言語は加工されているのだ。
小説の地の文に「位置関係はこんな感じだ」と書かれていて、その下に矢印があるとしても、語り手の意識の流れのなかの漢字かな交じり文をそのまま書いたわけでもなければ、矢印を思考しているわけでもない。なら、見取図も同様と考えてはいけないのだろうか? これだって広い意味では記号なのだし。
文章で書くべきところを図で代用するのはいかがなものかというような批判であれば、その是非はともかく、小説技巧の問題として議論できるとは思うが、リンク先の筆者の議論はやや無理があるように思った。
まだ書き足りないのだが、時間切れなのでここまで。

*1:さすがに一人称小説で場面転換なしに視点の切り替えを行うと混乱のもとだから普通はしないと思うが……。

*2:もっとも、私見ではこの区分によっフェアプレイにかなっているかどうかが決定づけられるわけではない。日記や手記の類であれば地の文に意図的な省略があっても許容されるというふうに機械的に判断するのではなく、読者が作中世界について安定的な知識を持ち得る程度の基盤が確保されていなければフェアとは言いがたいと考えるからだ。この話は長くなるのでここまで。

*3:ついでに言えば小説に限定されたことでもない。興味のある人は「ムーアのパラドックス」で検索されたい。

*4:もしかすると「日記体など」もそうかもしれない。

*5:専門用語とか、同音異義語があって紛らわしい語などの場合は漢字を思い浮かべることもあるかもしれない。

*6:別に会話文に限定する必要はなく地の文でも同じことだが、例示したのが会話文だったのでそう書いた。