閣内に不孝がありまして

松岡農林水産大臣が自殺したときには、現役閣僚の戦後初の自殺ということで大いに騒がれたものだが、その時はさほど関心もなく、「もしかしたらこの人はZARDのファンだったのかな?」と思った程度だったのだが、その後、新聞で通夜の様子が報じられているのを読んで、大臣の母親がご存命だと知り、何ともかんともやりきれない気分になった。
今、日本では価値観の揺らぎが激しくなっていて、自殺の是非についても人によって大きく意見が分かれる。最もドライな考え方をすれば、人の命は本人の自己決定権に服属するもので、他人の権利を侵害しない限り自由に処分可能だ、ということになるかもしれない。他方、国民の生命は国家に従属すべきもので、国益のためには進んで命を差し出すべきだ、という考え方もあるだろう。そんな混沌のなかで「親に先立つのが最大の不孝」などという旧来の価値観を振りかざして、声高に言い立てることにどの程度の意味があるのか。たとえば、親の虐待に耐えかねて自殺を図った子供に向かって孝行だの不孝だのといった言葉を発しても空虚に響くに違いない。だがしかし……ん、やっぱりうまく考えがまとまらない。
と、こんなことを考えて、というよりもなんとなく思っていただけなのだが、わざわざ日記に書くまでに至ったのは、この文章を読んだからである。

ちょっと待て、アンタ去年「いじめによる自殺」に対してどう答えたのよ。「文部科学大臣からのお願い」とか発表してたじゃないよ。なのに国民の代表のひとりである大臣が自殺したというのに「つらかったと思う」って。つらかったら自殺してもいいのかよ。アンタはそれを否定しなければいけない立場じゃないのかい。

今回の一連の騒動を見ていると、「自殺すれば許されるし、つらいことも終わる」、そういう空気が確かに存在するような気がしてイヤーな感じになってしまったのだった。

これまでにも何度か書いてきたが、個人的には自殺を否定はしない。まったくしない。死にたい人は死ねばいい。だからといって死ねば許されるとか、死んだら全てがチャラになるとかいうのは甘えた考えだ。死んでも非難はされるし、自分の末来は消せても過去は消せない。むしろ、死んだらそうした非難に対して反論もできないし、謝罪もできない。見返すことだってできない。そういうもんじゃないのかと思うんだけど。

少し考えが違うところもあるのだが、明確な異論があるわけではない。ポイントは「自殺はゆるされるかどうか」という問題と「自殺すればゆるされるかどうか」という問題の複雑な絡まり合いをどうほぐすかというところにあるような気がするが、今はその作業にとりかかる気にならない。とりあえず、思いつきを書き留めておくだけにしておく。