「水がなぜ、100度になると沸騰し、O度になると凍るのか」という問い

- Empty Talk -(2007-08-06)経由で【2ch】日刊スレッドガイド : 最先端科学でも解明されていない当たり前のこと。を見て思ったこと。
いきなり「水がなぜ、100度になると沸騰し、O度になると凍るのか」と問われたら、たぶん大部分の人は「水がなぜ、100度とか0度とかいうキリのいい数で表される温度で沸騰したり凍ったりするのか」という意味だと理解するだろう。そうすると、

これってそういう現象を定義づけしたに過ぎないんじゃないの?

他のは分からんが、これは解明も糞もないような気がするが。

自ずとこのような答えに至る*1ことになる。
だが、この問いは別様にも解することができる。「100度」と「0度」を端的に温度を指し示す指示句*2として解釈すれば、要するに「水がなぜその温度になると沸騰し、その温度になると凍るのか」という問いを提起していることになる。
この解釈によれば、もはや問題は言語の定義のレベルにはなく、事実に関する問題ということになる。それは科学が扱うべき問題だが、たぶんまだ解明はされていないのだろう。どちらの解釈のほうが筆者の意図に沿ったものなのかは不明だが、寛容の原則に従うなら、後者の解釈をとるほうが妥当だと思われる。
一般に「なぜ……なのか」という理由や根拠を問う問いは、それが原理的なものであるほど言葉で言い表すのが難しくなる。今の例だと「水がなぜ摂氏100度(華氏212度)になると沸騰し、摂氏0度(華氏32度)になると凍るのか」と表記しておけば多少紛れが減じたことだろうが、もっと抽象的な問いになるとさらに難しくなる。極端な言い方をすれば、哲学者の活動の半分は表明された問いが何を問うているのかを解明することだ。残りの半分は何を問うているのかが理解できた限りにおいてその問いを解明することだが、そこまで至らずに横道にそれることも多い。
とかく言葉は難しい。

追記

 たいがいの科学は、どういうメカニズムで、というのを説明するもので、何故、つまり超越者の意思を、責任込みで問うものではないと思う。

超越者の存在やその意思を前提として「なぜ……なのか」という問いを立てる場合はもちろんあるだろう。しかし、【2ch】日刊スレッドガイド : 最先端科学でも解明されていない当たり前のこと。で提示されているのは、まさに「どういうメカニズムで」という問いであり、そこに超越者への暗黙のコミットメントを読み込むのはいかがなものか。
やっぱり言葉は難しい。

*1:もっとも、摂氏温度の成り立ちを知っている必要はあるが。

*2:典型的なものは固有名だが、代名詞も一定の文脈のもとではそのような指示句として機能する。これらに対して、一定の条件を提示することによって、当該条件を満たすものを表示する言語表現もある。たとえば、「徳川慶喜」は前者の、「史上最後の征夷大将軍」は後者の言語表現だ。今の例でいえば、たとえば「0度」を「ある温度表示システム(ここでは摂氏)のもとで基準となる温度」という条件を提示し、その条件を満たす温度として水の凝固点を表示していると解釈することも可能だ。