本の面白さはドラム缶の形に似ているかもしれない

ドラム缶はほぼ円柱形なので、地面に立てれば上からは円に見え、横からは長方形に見える。いま、二人の人が一本のドラム巻を上と横から見たとき、一人は「このドラム缶はまるい」と言い、もう一人は「いや、このドラム缶はまるくない。角張っている」と言ったとしよう。どちらも間違ったことは言っていないが、だからといって「ドラム缶の形は見る人によって違うのだ」などと総括して、さらに「唯一無二の客観的な『ドラム缶の形』などというものはありはしないのだ。すべては見る人の主観によって決まる。いわば、ドラム缶の形は見る人の数だけ存在する!」などと言い立てられるとちょっと困る。それは無茶というものだ。
常識をわきまえた人なら誰でも同意してくれることと思うが、もちろんそれぞれのドラム缶には唯一無二の客観的な『ドラム缶の形』が存在する。人によってその見え方が異なるのは、各人の主観によってドラム缶の形が決まるからではなくて、それぞれの人の位置が異なるからだ。ドラム缶を上から見下ろして「このドラム缶はまるい」と言った人は、下に降りて横に回れば「このドラム缶は四角だ」と言うことだろうし、横から見ていた人が先に上の人が占めていた位置に移れば「このドラム缶はまるい」と言うことだろう。
さて、この先はやや議論が飛躍するので、常識をわきまえた人なら誰でも同意してくれると期待することはできない。だが、一つの仮説として聞いてほしい。
ある本を二人の人が読んで、一人は「この本は非常に素晴らしく面白い!」と言い、もう一人は「いや、全然面白くなかった。つまらない」と言ったとしよう。また、どちらもわざと間違ったことは言っていないと仮定する。すると、「本の面白さの度合いは人によって違う。各人の主観によって本の面白さがそれぞれ別個に決定される」ということになるのかどうか。
先のドラム缶の喩えがここで適用可能だとすれば、答えは「否」だ。
本には唯一無二の客観的な『本の面白さ』があり、人によって異なることはない。ただし、それぞれの人は「異なる位置」から本を読むので、面白さの感じ方、捉え方が違ってくるのだ。先に「この本は非常に素晴らしく面白い!」と言った人も、もう一人の「位置」から同じ本を読めば「全然面白くない」と言うだろうし、後者が前者の「位置」で読めば、絶讃することだろう。
さて、ここで考えなければならないのは、本を読む「位置」というのはいったいどういうものなのか、ということだ。もちろん、文字通りの意味、すなわち空間的な場所を指すわけではない。いや、本屋で立ち読みするのと刑務所の独房で読むのとでは同じ本についても感想が異なるということは十分考えられるから、本を読む場所はここでいう「位置」の一部ではあるだろうが、しかし全部ではない。ほかにもさまざまな要素が絡み合って各人の「位置」を決定している。
ドラム缶の例には、二人の人は互いに相手の位置に移動することによって発言を変えることとなった。だが、本の場合には、自分が現に立つ「位置」から別の「位置」に移動することはたやすいことではない。そこで、本の面白さについての意見の違いから「本の面白さは人の数だけ存在する」という極論への移行が見過ごされがちになる。
また、ドラム缶の喩えでは平面上の「円」や「長方形」という言葉のほかに、立体の形を表す「円柱」という簡潔な用語が既に用意されていたが、本の場合には「面白い」とか「つまらない」といった平面的(?)な用語はあっても、「ある『位置』からみれば面白く、別のある『位置』からみればつまらない」ということを簡潔に言い表す用語が日本語には存在しない。用語がない故に実在もない、と考えたくなる。つまり、個々の視点から独立した唯一無二の「本の面白さ」の不在へと導かれるわけだ。
先ほど「常識をわきまえた人なら誰でも同意してくれると期待することはできない」と書いたのは、以上2つの事情による。だが、冷静になってよく考えてみれば、これらの事情は絶対的なものではなく、本の面白さをドラム缶の形と同じく客観的な実在だと考える主張を覆すものではないということがわかることだろう。