数える/計算する/理解する

数字の語彙を知らなくても数を数えられるということは、数を理解するのには必ずしも言葉は必要無いということなのでしょうか。逆に数学の語彙を知っていても数を理解しているとは限らないのかもと考えました。例えば100万という数を数を書くことが出来て、計算もできるとしても数を理解していると言えないのかもということです。具体的な100万という数を思い浮かべることが出来るでしょうか。それでも100万程度ならば、100×100×100なのでそれほど難しくはないかもしれません。何かが100個×100個並んでいる状態を想像して、それが100あるとすれば100万です。でも、もっと大きな数だったらどうでしょうか。

この問題についてちょっと考えてみた。

  1. 数字の語彙を知らなくても数を数えられる
  2. 数を理解するのには必ずしも言葉は必要無い
  3. 数学の語彙を知っていても数を理解しているとは限らない
  4. 数を書くことが出来て、計算もできるとしても数を理解していると言えない

1は数字の語彙を知らなくても物は数えられる、アボリジニの子どもで実験 国際ニュース : AFPBB Newsで主張されていることだが、これを疑うと議論の前提が崩れてしまうので、ここでは無批判に受け入れる。
次に、数を理解していると言えるためには数を数えることができれば十分だと言えるなら、言い換えれば、数を数えることができるためには数を理解している必要があると言えるなら、1から2を導き出すことができるだろう。
その次の3は、どういう条件のもとで数学の語彙を知っていると言えるのかに依存することになるだろう。仮に「数学の語彙を知っている=数を書くことが出来て、計算もできる」と考えるなら、3と4は同じことを言っていることになる。
数を数えるということ、数を表す言葉を知っていること、計算するということ、数を理解しているということ。これらの間にはたぶん何らかの密接な関係があるはずだが、互いにどのように関連しているのかは判然としない。ただ、これらの系列と、数を思い浮かべるということや、数を想像するということとは、少し違いがあるように思われる。
たとえば、両手の指を折って1から10までを数えるとき、頭の中で10を思い浮かべたり、何かが10ある状態を想像したりする必要はない。また、同じ作業を指のかわりに言葉を使って行う場合も同様。
私見では、数を理解するということは、数と数との関係を秩序立てることができるということである。ごく小さな数の場合には、順番に数を数え上げることができるのなら、数を理解していると言って差し支えないように思う。大きな数や分数、虚数など、数えることができない数の場合には、ある程度の計算ができるということが数を理解しているということになるだろう。計算できる程度が即、理解の程度を表すことになる。
もし、数を理解することが数を思い浮かべることと密接に相関しているなら、人は数をほとんど理解できないということになるのではないか。たとえば、たいていの人は100と99は別の数であるということを知っているし、前者が後者よりも大きな数であるということも知っているのだが、具体的に何かが100個並んでいる状態と、99個並んでいる状態を思い浮かべたときに、両者の間に違いを見いだすことは難しい。