コミケとラノベから離れたらオタク文化の「今」が皆目見えなくなった

先日、久しぶりに日本橋界隈を徘徊した。
特に用事があったわけでなく、阪堺電車の運賃がどこまで乗っても200円になったので浜寺駅前から恵美須町まで乗りとおしたついでに日本橋まで足を伸ばしたのだが、街の風景は以前とさほど変わっていないのに、まるで異国のように感じられた。というのは、あちこちのオタク系ショップのポスターや立て看板に描かれているキャラクターも、そこに書かれている作品名もさっぱりわからないからだった。
考えてみれば、日本橋で散財するような消費生活から足を洗ったのは10年近く前のことだ。だから、今のはやりがわからなくなっていても何の不思議でもない。とはいえ、日本橋で買い物をしなくなってからでもちょくちょく街歩きはしていたし、その際にも何がなんだかわからないオタク的物件は数々目にしていたのだが異国風景のようには感じなかった。
ということは、先日の違和感は、単に「わからない」ということ以上の何かなのだろうと思う。
そこでいろいろ考えてみたところ、オタク的消費から遠ざかった後も、オタク文化から全く隔絶してしまったのではなくて、そこには2つの「通路」があったことに思い至った。それが、今日の見出しに掲げた2つだ。
「通路」の意味をもう少し説明しよう。
一口にオタク文化と言ってもその内実はもうずっと前から非常に多種多様で複雑なものになっている。前世紀ならオタク文化全体に積極的関心を向けて、どっぷりと耽溺することも可能だったかもしれないが、今ではどんなに財力と意欲と暇があるオタクでも、一人でオタク文化の全領域を熟知するのはまず不可能だろう。
しかし、オタク文化の各領域は明確に分断されて他の領域と没交渉になっているというわけではなく、いくつかの結節点でゆるやかな繋がりを保っているように思われる。そこで、もしオタク文化のどこか片隅にでも立脚点があれば、そこから断片的に入ってくる情報をもとにして、オタク文化全体がだいたいどういう仕組みになっているのか、ある程度の概念的見取り図を描くことができる。
コミックマーケットの会場に足を運んでみると、そこにはさまざまなジャンルがあって、それぞれのスペースの規模や集客の度合いが簡単に見てとれる。ほとんどのジャンルは自分にとっては馴染みのないもので、ブラックボックス同然だが、それでも「そこにブラックボックスがある」という認識を持つことはできる。特に勢いのあるジャンルなら、そのタイトルやキャラクターの名前が知らず知らずのうちに記憶に残ることもあるだろう。そうやって描かれた「心の地図」はもちろん方位も縮尺もでたらめな歪んだものに違いないが、しかしそれはオタク文化の概念的見取り図と呼ぶに値するものとなる。
コミックマーケットは、かくして、それ自体の空間的広がりをもって「通路」として機能する。
では、ライトノベルはどうか。これは一つの「ジャンル」「に過ぎない。今わざわざ「ジャンル」を括弧で括ったのは、ライトノベルがミステリやSFなどと同じ資格で文芸の一ジャンルであるとは言いがたいからで、むしろジャンル横断的なカテゴリーとみるほうが適切ではないかとも思われるのだが、今は文芸上のジャンルの話をしているのではないので、以下は括弧を外すことにしよう。
一つのジャンルに過ぎないライトノベルがなぜオタク文化全体への「通路」と成り得るのか? ひとつにはメディアミックスという形でマンガ、アニメ、ゲームなど他の媒体へ移植されているという事情がある。だが、そのような直接の繋がりよりもむしろ、ライトノベルを読んだり、それら関連する情報を収集したりする際に、他のジャンルに間接的に触れることになるということのほうが大きいかもしれない。
これらの「通路」があったおかげで、過去数年間、消費者としてはオタク失格だったにもかかわらず、オタク文化はなお馴染みのあるものだったのだが、一昨年の秋頃からライトノベルを読むことをほとんどやめてしまったこと、そして去年の冬にはコミックマーケットにも参加しなくなったことから、残された2つの「通路」が閉ざされた形となり、先日の違和感に繋がったのだろう。
こんな話はわざわざ書かなくてもわかっている人にはわかっていることだし、わからない人がわからないままでも何の支障もない。たちの悪い自分語りだと思われるかもしれないが、本当にそんなふうに思う人はたぶ最初のほうで読むのをやめてしまっているだろうから問題ない、と開き直ってしまおうかとも思ったが、いちおう謝っておこう。毒にも薬にもならない無益な話ですみません。