封筒を開ける理由と方法、その他の疑問

Zの悲劇 (角川文庫)

Zの悲劇 (角川文庫)

角川文庫から新訳が出たのを機に、○十年ぶりに『Zの悲劇』を読んでみた*1。前に読んだのは小学校高学年のときだったか中学校へ上がってからだったか、いずれにせよ十代前半の頃だ。今となっては内容をすっかり忘れてしまっている。もちろん、犯人の正体は忘れようにも忘れられないが。
十代の頃に読んだときには、この『Zの悲劇』がドルリー・レーン四部作の中で最高傑作だと思った。世評の高い『Yの悲劇』は雰囲気が重過ぎる。『Xの悲劇』は『Yの悲劇』よりは読みやすいが、第一の事件の犯人は現場の状況から簡単に一人に絞れるのが単純だ。『レーン最後の事件』はメロドラマ色が強すぎる。そういうわけで、謎解きとサスペンスがほどよくマッチした『Zの悲劇』が最も面白いと感じたのだった。
いま、四部作を全部読んだら印象はどう変わるだろうか? 多少興味がなくはないのだが、今から『Xの悲劇』や『Yの悲劇』を再読するのはちょっとしんどい。『Zの悲劇』の再読すら、できるかどうか危ぶんだくらいだ。
ともあれ、全部読みきった。面白かった。
完全に忘却の彼方にあった記憶もわずかに蘇ってきた。子供の頃に読んだときには、レーンの消去法による推理に感服しながらも、ふたつの事件の犯人が同一人物だと断定してしまっていいものだろうかと思ったものだった。共犯とか模倣犯の可能性もいちおうは検討すべきではないかと。
読み返してみると、単独犯の仕業だという点についてはことさら異議申し立てをするほどのことではないような気がした。それは推理の大前提のようなものだろう。むしろ、個々の推理のステップのほうにいちゃもんをつけることができるのではないか。
たとえば……おっと、これから先は『Zの悲劇』をまだ読んでいない人には遠慮してもらいたい。いちおう、「続きを読む」記法を使っておこう。万全ではないが、多少は効果があるだろう。









レーンの推理では、上院議員が自分の書いた手紙を入れた封筒を開封したという可能性は、次の理由で否定される。

  1. 手紙は写しと全く同じなので、訂正のために開封したとは考えられない。
  2. 写しがあるのだから、内容確認のために開封したとは考えられない。
  3. 開封するのなら封筒を切ればよく、湯気を当てて開くことはない。

だが、手紙の内容を訂正しようと思って開封したが、やっぱり気が変わって訂正するのをやめるというのは、ふつうの人間の行動としてさほど不自然なものではないだろう。また、慌てて封筒に入れた手紙がちゃんと入っているかどうか確認したいときに、手元に写しがあるということは何の役にも立たないのは明らかだ。そして、封筒を鋏で切ってしまったらもったいないし、もう一度新しい封筒に宛名書きをするのが面倒だと思うこともあり得るだろう。
子供の頃は手紙を書いたり封筒に入れたりすることはほとんどなかったが、仕事で大量に文書を作成して発送するようになると、一度は訂正しようと思って面倒になってやめたり、手違いで1枚書類が足りなくなっているのではないかと不安になって開封したり、後で再度封入できるように鋏を使わずに開封したりすることは日常茶飯事だ。まあ、あまり湯気で開けたりはしないけれど。糊が乾ききる前なら、たいていは物差しを差し込めば開きます。ちょっと破れるけど。
もう一つケチをつけておこう。
第二の事件が水曜日ではなく木曜日だったことから、水曜日には犯行が不可能だったと結論づける推理はやや弱いように思う。犯人はただ何となく木曜日に人を殺したかったのかもしれない。
このように書くと、ミステリの推理には論理性だけでなく蓋然性も求められるのだ、と反論されそうだ。それはまあ確かにそうだ。しかし「水曜日に犯行が不可能だから日延べした」というのと「ただ何となく木曜日に人を殺したかった」というのとでは、前者のほうがより蓋然性が高いと言えるものだろうか?
犯人は気まぐれではなく合理的に行動するというのが推理の大前提だ、という反論も考えられる。では、こんな考え方はどうか。犯人は体調を崩しており、水曜日に殺人という大事を成し遂げるのに不安があった。木曜日なら何とか体調が回復しているだろうと考えて日程調整をしたのだ。これなら、犯人の行動は十分合理的だといえるのではないか。
いや、事件の少し前に体調を崩している人物がいた、などという記述はどこにもないではないか。もし、体調不安説が事実なら、なんらかの手がかりで作者は読者にそれを示すべきではなかったか。それをしていないということは、体調不安説は成り立たないということだ……と架空の反論者は言う。でもなぁ、ドルリー・レーンはそういう理由で体調不安説を退けているわけじゃなくて、端的に無視しているんだがなぁ。
……と、あれこれ理屈を捏ね回してみたが、本気で『Zの悲劇』のあら捜しをしたいわけではない*2。子供の頃には考えつかなかった難癖を大人になっていくつも考え出せるようになったということを確認してみたかっただけだ。これしきのことで『Zの悲劇』の価値がいささかも減じられることはないと信じている。

*1:前に読んだのは創元推理文庫版だった。

*2:5年前なら本気であら捜しをしていたかもしれない。だが、年をとってすっかり意欲が減退してしまった今では、もう叶わぬこととなってしまった。今はただ静かに余生を過ごしたい。