サッカーと選挙はどこが違うのか?

90ぷんの サッカーの ゲームで、たった いちどしか ボールに ふれなかった せんしゅが いたと する。

ゲームの けっかや ないように たいする その せんしゅの えいきょうりょくは ごく わずかな ものでしか なかったとしも、それは ゼロでは ありえない。

その せんしゅは ゲームが おわった あとに、「もし……」と とう ことが でき、また 「じっさいには おこらなかった こと」「おこったかも しれない こと」を、じぶんの おこないとの かんれんに おいて、そうぞう することが できるだろう。

もし、その いちどきりの ボール・タッチが なかったなら、ゲームは 「じっさいに あった もの」と ちがった ものに なって いた はずなのだ。じっさいに おこった できごとは、その せんしゅの ささやかな ボール・タッチなしには なかったであろう できごとなのであって、じっさいに おこって しまった できごとから その せんしゅの たった いちどの ボール・タッチを ひきざん する ことは できない。

そして、かりに その せんしゅが チームに こうけん する つもりが まったく なく、ゲームに おいて ボールに ふれる ことを さけ つづけた としても、その ひとが ゲームに たいして なんの はたらきかけをも もたない ことは、ふかのうである。ゲームに むかんしんを きめこんで ただ つったて いたのだ としても、その せんしゅが なにも せずに つったている こと それ じたい、また その つったって いる いちに よって、その ひとは ゲームに はたらきかけ、えいきょうを もたらして いる。そんざい する だけで、その ひとは すでに たしゃへの はたらきかけを して しまって いる。

【略】

せんきょでの かちまけは、たんに それぞれの こうほしゃや せいとうへの とうひょうを かぞえる こと、すなわち たんなる たしざんに よって きまる。

たしざん された ものは、あとから ひきざん する ことが できて しまう。わたしが とうひょうした こうほしゃが かりに 53442ひょうを かくとく したのだと すれば、「もし、わたしが とうひょう しなかったら」その ひとは 53441ひょう かくとくした だろう。ここでは、「もし……なら」と、わたし じしんの おこなった こういを ふりかえって、ありえたかも しれない かのうせいの せかいを そうぞう する ことが、ばかばかしい、ほとんど ナンセンスの きわみとしか いえない しろものに なって いる。

最初この文章を読んだとき、何か変なことが書いてあるという印象はあったものの、どこがどう変なのか指摘できるほど深く考えてはいなかったのだが、今日あらためて読み返してみて違和感の理由にようやく思い至った。
上の文章は一見するとサッカーと選挙を比べているように見える。しかし、よく読めば、直接比較の対象になっているのは「ゲームの けっかや ないよう」と「せんきょでの かちまけ」である。ひとりの選手の行動を評価する際には単にゲームの勝ち負け以外の要素を加味しているのに、ひとてりの有権者の行動を評価する際には単に選挙の勝ち負けのみを考慮して、その「内容」には踏み込んでいない。
選挙の結果や内容に対する有権者の影響力はごくわずかなものでしかなかったとしても、それはゼロではあり得ない。ある候補者の得票数が53442票か53441票かということは、選挙の結果の一部であり、ひとりの有権者の行動によって結果に違いが生じたと言うことは可能だ。
だが、得票数1票の違いはたいていの場合は勝ち負けを左右することにはならないのだから、そのような些事に拘るのは「ばかばかしい、ほとんど ナンセンスの きわみとしか いえない」。53442票と53441票の違いは偶数か奇数かという違いでもあり、3の倍数か3の倍数でないかの違いでもある。さらに言えば、53441は素数でもあるのだが、そういうことに思いを巡らせるのも、馬鹿馬鹿しい、ほとんどナンセンスの極みとしか言えないだろう。それが常識というものだ。
ついでにいえば、サッカーの意義は勝ち負けだけではない、というのも常識の教えるところである。ゲームの内容はもとより、その結果だけを見ても、どちらのチームが勝った負けた、という以上の要素を含んでいる。サッカーに限らず、スポーツ一般について、勝ち負けだけが結果のすべてだと割り切るのは、スポーツを冒涜していることになる。スポーツといえるかどうかは別として、大相撲の八百長問題で世間があれほど批判したのは、「八百長だろうがガチンコだろうが勝ちは勝ち、負けは負け」という価値観が常識に反するということの表れなのだろうと思う。
それはさておき。
冒頭で引用した文章は、本文にほとんど漢字が使われていない*1という、見た目にはかなり独特なものだが、だからといって全く常識はずれというわけではない。それがいいのか悪いのかといえば「いい」としか答えようがないのだけど、少しさびしさを感じてしまった。

*1:引用していない箇所で一度だけ「契機」という表記が用いられているが、これは「きっかけ」と書いておけば漢字を使う必要はなかったのではないかと思う。