くびきとしての家族

国としての役割を国が果たそうとすれば、現状の親族単位で考える生活保護のあり方は間違っているといえる。人が家族というくびきから解き放たれ、個人としてパフォーマンスを発揮していこうとするときに、国が親族の世話をさせようとして、その足を引っ張るのではお話にならない。

それはけっして生活保護の話だけではなく、介護の問題なども同じである。家族の介護のために本来であればいろいろなことができるはずの人を、家に押し込めるのはとても不合理だ。そのために支援をするのも、国の役割のはずである。

この文章を読んで、「介護の問題など」の「など」の中に育児や家庭教育は入るのかなぁ、と気になった。「親族」と「家族」がちゃんぽんになっているような文章なので、あまり深読みしても仕方がないだろうと思いつつも、個人のパフォーマンスの発揮に重きを置いて、家族をその制約だと考えるような人間観は果たしてどの程度擁護可能なのだろうか、と考えてみたくなった。
ところで、この文章では人と国とが直接向き合っているかのような単純化された構図で福祉を論じているのだが、実際にはその間に地方自治体が介在している。また、現在では家族以上に衰退が激しいとはいえ、地縁関係もなくなったわけではない。議論を精密化していく過程では、そのような中間者への目配りも必要なのではないかと思ったりもした。